第七話『姉の背中(白石城)』
矢野 隆Takashi Yano
「あれも御主(おぬし)の娘か」
鬼の口調が急におだやかになった。
「へ、へいっ」
「ふぅん」
四角い顎を拳でごしごしとこすりながら、鬼が喉を鳴らした。糊(のり)の効いた灰色の袴(はかま)に茶色の染みが散っている。泥だ。得心がいった。父が鬼の袴に泥を飛ばしたのだ。
「御主」
鬼がしんのほうを見て言った。なんと答えればよいのかわからず、菜の花を握りしめたまま立ち尽くしていると、ひざまずく二人をそのままにして鬼が歩みよる。
「年はいくつじゃ」
「え……」
鬼の気迫に押されるように、しんの足が思いよりもさきにうしろに動く。
「どうか、お許しをっ」
娘へ近づこうとしている鬼の足に、全身泥まみれの父が飛びつく。当然、鬼の袴は汚れた。穏やかさを取り戻していた鬼の顔が、これまで以上に真っ赤に染まる。
「むっ、娘だけは」
「放さぬか下郎がっ」
鬼が立ち止まり父を見くだす。見開かれた眼は怒りで深紅に染まっていた。父は鬼の顔を見ず、必死に取りすがっている。
「こは御先代、景綱(かげつな)様に頂戴した袴じゃ。志賀(しが)家累代の家宝にいたそうと思うておるこの袴に、御主はいったいなにをした」
家宝にしようと思っているなら、どうして身に着けて歩いているのか。父や姉が必死の形相で己に逃げろと叫んでいるなか、しんはそんなことを考えていた。目の前の光景はたしかに急を要する事態なのだが、なぜかそれをまともに受け止めきれない。
「娘だけはなにとぞっ、何卒っ」
己のことを志賀と言った鬼に、すがりつきながら父が叫ぶ。
「離さんか」
鬼の右手が腰の角に伸びる。長いほうの角をしっかり握りしめて、父を見おろす。
「みやっ、しんを連れて逃げろ」
「うん」
答えた姉が立ちあがり、鬼の脇を駆ける。
「待たんかっ」
姉は耳を貸さず、しんの手首を握った。
「逃げるよ」
「姉さま」
「なにも言わずに走るのっ」
引っ張られる力に流されるように、しんは父に背をむけ走りだした。
「下郎めがぁっ」
腹の底から巨大な声の塊を吐きだした鬼が、腰の角を引き抜く。銀色の雷が父の肩口に落ちるのを、しんは肩越しに見た。
「見ないで走ってっ」
叫んだ姉の目に涙が光っていた。
- プロフィール
-
矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。