よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

 ひと月後、しんの姿は江戸にあった。
 残されたわずかな田畑とあばら家を売り、姉妹そろって江戸へとのぼったのである。
 決めたのは姉だった。
 親もなく、幼い姉妹ふたりで白石(しろいし)近在に残ってどうやって生きてゆくのか。またいつ志賀団七が現れるかも知れない。団七を恐れて生きていくくらいなら、いっそ白石を出よう。そう姉は諭した。しんに否やはなかった。
 そしていま、二人は長屋の前に座している。
 由比正雪(ゆいしょうせつ)。二人が座る部屋の主の名だ。神田連雀(かんだれんじゃく)町で、張孔堂(ちょうこうどう)という名の学問所を開いている。軍学を教授しているということなのだが、それらはすべて姉から聞いたことだった。しんは軍学も、由比正雪という名も知らない。男勝りな姉は、村でも男友達と遊ぶことが多く、そういう話をどこぞで聞いてきたのだろう。江戸へ来た理由も、娘二人で生きるためというわけではなく、張孔堂を訪ねるためだったらしい。
 隣に座る姉が、しんの膝のうえに手を置いてささやいた。
「ずいぶん冷えるね」
 朝靄(あさもや)にけぶる裏路地の長屋は、陽の光が昼ごろにならなければ満足に当たらない。夜の冷たさが残る土のうえは、氷のように冷たかった。
「無理しなくていいんだよ。お金はあるんだから、あんただけでも宿に泊まりな」
 しんは首を左右に振った。姉がすぐに言葉を重ねる。
「あんたは私と違って娘なんだ。仇討(あだう)ちなんかできっこない」
 姉だって娘だろうという言葉を呑んで、しんは再び首を左右に振る。
 仇討ち……。
 姉は恐るべきことを考えていた。父と母の仇を討つために、江戸へと来たのだ。
 相手は城の剣術指南役である。しかも姉は女。勝てるわけがない。それでも、真正面から姉を諭すような勇気はしんにはなかった。
「あんたがいてくれるだけで私は頑張ることができる。あんたは宿に泊まりな。落ち着いたら奉公先を見つけて、働けばいい」
「姉さまは」
「私は正雪様のところで学んで父さまと母さまの仇を討つ」
「でも」
「百姓が仇討ちなんて聞いたことないよ。でも、私はやるんだ。どんなことがあっても、必ず志賀団七だけはこの手で殺してみせる」
 無理に決まっている……。
 心に浮かんだ言葉は声にならなかった。
 膝に置かれた姉の手に力がこもる。
「痛い」
「あぁ、ごめん」
 慌てて手を放した姉の目が、しんの背後を見あげる。その視線を追うように顔をあげると、いつの間にか長屋の障子戸が開いていて、細面の青白い顔をした小柄な男が見おろしていた。
「まぁだ居たのか」
 甲高い声で言った男にむかって、姉が額を土にこすりつけるようにして頭をさげた。
「どうか、軍学のご教授をお願いいたします」
 姉の悲痛な声に、青白い顔の男こと由比正雪は溜息を吐(つ)いた。それから首の裏をぼりぼりとかいてしゃがんだ。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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