第七話『姉の背中(白石城)』
矢野 隆Takashi Yano
「馬鹿野郎っ。鎌がおろそかになってんだろ。それじゃ、ただの分銅(ぶんどう)じゃねぇか。鎌と分銅、ふたつを結ぶ鎖。どれが来るかわかんねぇから、相手は戸惑うんだろうが。お前ぇの使い方じゃ、どうやったって勝てねぇ」
稲荷(いなり)社の階(きざはし)に腰をかけた正雪が姉に怒鳴るのを、信夫は長刀(なぎなた)を振りながら聞いた。
「わかってんのか宮城野っ」
「はい」
鎌の柄のさきに付いた鎖を器用に回しながら、姉が答える。鎖の端に鉄の分銅があり、その重さを利用して鎖は風を切るほどの速さで回っていた。
正雪に弟子入りしてから二年が過ぎた。二人は梢の計らいで、長屋に同居させてもらっている。狭い狭いと文句を言う正雪をにらみひとつで黙らせた末のことだった。昼のうちは軍学を学びにくる弟子たちが部屋を埋め尽くす。その時は梢とともに、買い物や洗濯など家のことを三人でやり、皆が帰ってから正雪に得物の使い方を学ぶ。
「お前ぇたちは仇討ちがしてぇんだろ。だったら軍学なんか学ばなくていい。相手を殺すための術(すべ)を身につけろ」
そう言って正雪は、夕暮れになると近くの小さな稲荷社に二人を誘い、得物の教授を行った。姉は鎖鎌で、信夫は長刀。二人の得物は正雪が決めた。
「おい信夫、やる気がねぇんならいつでも止めていいんだぞ」
ぼんやり姉を眺めていた信夫を、正雪が叱る。姉に教授している時も、正雪は信夫のことを見逃さない。頭の裏にも目があるんじゃないのかと思う。
二年間で信夫が正雪に教えてもらったことといえば、長刀を真っ直ぐ振りあげて、真一文字に斬りおろすということだけ。
原因は信夫にある。
仇討ちなど無理だという気持ちが、鍛錬の最中にも滲(にじ)み出ていたらしく、最初の二、三日は黙って見ていた正雪が、いきなり怒鳴った。
「そんなに嫌なら、お前ぇはずっと真っ直ぐ振ってろ。やる気がねぇ奴に教えたって無駄だ」
それから本当になんにも教えてくれなかった。それでもぼんやりしていると叱られる。
「お前ぇは宮城野のように躰を動かすことには長(た)けてねぇんだ。止めとけって言ってんのに毎日長刀持ってついてきやがるから、見てやってんだ。だったらとにかく長刀を振って、刃筋を通すことを躰に染みこませろ」
素直にうなずいて、信夫は黙々と長刀を振りつづける。
不満はなかった。こうして長刀を振ってさえいれば、姉と一緒にいられるのだ。
この二年で、はっきりとわかったことがある。
信夫は仇討ちを望んでいない。はなから無理だと思っている。
志賀団七を討つということを、どこかで他人事だと思っている己がいる。仇とむきあうのは信夫ではなく、姉なのだ。だって戦えるはずがない。姉とは違う。悲しみも喜びも、怒りも不安もすべて曝(さら)け出す姉とは真逆。みずからの想いを表に出したことがない。そもそも、姉のように心が激しく揺れたことがないのだ。父と母が死んだ時はたしかに悲しかった。姉が江戸にゆくと言った時には、正直戸惑いもした。しかしそれは、平生にくらべれば少し心が動いたという程度のことであり、のたうちまわるほどの大波ではない。瞼の裏に志賀団七の顔が焼きつくほどの激情など、信夫の心を隅々まで探してもありはしないのだ。そんな自分が、団七にむかって長刀を振りおろせるのか。できないに決まっている。
白石にいたころは何事にも前向きな姉と己をくらべ、ずいぶんふさぎこんだものだ。内気な気性を恨んだりもした。だが、この二年の間に、信夫は変わった。己と姉は違う。それで良いのだ。そして、自分は仇討ちを望んでいない。最初から無理だと決めつけている信夫にやれるわけがない。
あくまで仇討ちは姉の大願なのだ。
では己は……。
見つからない。
「こら、ぼけっとするんじゃねぇっ」
また怒られた。
「なにやってんだろう……」
二人に聞こえない声でつぶやいてから、信夫は黙然と長刀を振りつづけた。
- プロフィール
-
矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。