第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』
矢野 隆Takashi Yano
「やはり判官殿は衣川館を動かれる気はないらしい。柳之御所には来ぬと申されておる」
兄は用件だけを簡潔に述べた。
「左様か」
「うむ。大将軍の任も国務を執ることも御辞退いたしたいとのこと」
「そんな」
泰衡は口走る。
父が死んでからというもの、昔よりも言葉が出辛(でづら)くなった。本人は気付いていないが、それまでの泰衡は父の言葉を借りていた。直接、父から言伝(ことづて)をされた時以外でも、父の思考をなぞり、父ならばこう言うだろう、父はこう思っているはず、などと考え、それを言葉として紡いでいた。しかし父が死ぬと同時に、泰衡のなかにあった父の思考も消え去ってしまった。結果、泰衡はそれまでも饒舌(じょうぜつ)な方ではなかったが、極端に口数が少なくなったのである。
そんな弟の気持ちなど知らずに、国衡が言葉を重ねた。
「泰衡殿のことを慮(おもんばか)られたのでありましょうな」
兄はかならず泰衡殿と言う。嫡男である泰衡のことをどんな時でも立ててくれる。
胸中で渦巻く想いの数々を、懸命に言葉にまとめつつ泰衡は声を吐いた。
「兄上はどう思われておられるのじゃ」
嫡男は泰衡である。秀衡亡きいま、藤原家の当主は己なのだ。兄とはいえ国衡は家臣。本来ならば名で呼ぶべきであろう。しかし昔から、泰衡は国衡を前にすると訳もわからず緊張する。弟である自分が嫡男として、ゆくゆくは藤原家の当主となることに対する引け目と、己よりも何倍も武士らしい壮健な兄への薄汚い嫉妬心が、泰衡を物怖じさせるのだ。
「どう思うとは」
国衡が素直な気持ちを口にする。泰衡はひとつひとつ確かめるようにして、兄に問う。
「父上は判官殿に国務を御任せになられた。それは、我等兄弟よりも判官殿を、父上は選ばれたということではござりませぬか」
「あくまで判官殿は、大将軍に任じられただけ。藤原家の当主であり、平泉の主は泰衡殿じゃ」
「父上は我等に判官殿を助けよと」
「平泉は義経殿を助け、鎌倉と対峙(たいじ)せよと申されたのだ。泰衡殿には藤原家の惣領として、奥州の長として、判官殿に力添えせよと父上は申されたのじゃ」
鎌倉と対峙する……。
それはつまり義経を担いで鎌倉の頼朝と戦えということか。
兄から目を逸(そ)らし、泰衡は室外に目をやる。
柳之御所の広大な敷地にいくつもの屋敷が建っている。北上川(きたかみがわ)の水を引き込み、周囲に堀をめぐらした柳之御所は、平泉の政の中枢であり奥州防衛の要であった。奥州藤原初代、清衡が奥六郡(おくろくぐん)と呼ばれる朝廷より蝦夷に与えられた地を伝領し、この平泉に居を移した。奥州支配の拠点として清衡が築いたのが、この柳之御所である。祖父基衡(もとひら)、父秀衡と代を重ねるたびに、奥州支配はより強固となり、柳之御所も規模を拡張させていった。泰衡が譲り受けたこの御所は、いわば蝦夷防衛のための城であった。
「兄上……」
陽光が降り注ぐ庭園から、ふたたび国衡へと目を移す。いきなり室内を見たせいで、頑健な兄の躰がぼやけて見える。
国衡は無言のまま弟の言葉を待っていた。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。