よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この漢は大永(たいえい)元年(一五二一)の飯田河原(いいだがわら)の合戦で今川勢の総大将、福島(くしま)正成(まさしげ)を単騎で討ち取ったほどの剛の者である。ちなみに飯田河原合戦が行われた大永元年は晴信が生まれた年だった。
 その時の武辺から、家中では美濃守(みののかみ)の官職にちなんで鬼美濃とか、夜叉(やしゃ)美濃という二つ名で怖れられている。そうした腕前を買われ、信濃(しなの)の最前線を睨(にら)む海ノ口城の守将を任されていた。
「美濃守、そなたは諏訪と村上が手を組んで当家を裏切ったと考えておるのか?」
 晴信の問いに、虎胤が渋面(しぶづら)で頷く。
「眼前で起こった出来事だけを見れば、さように考えざるを得ませぬ。もちろん、それは関東管領職の山内上杉憲政殿にしても同じ事。……と申しますか、それがしなりに言わせていただければ、この三者は代替わりした当家を甘く見ているとしか思えませぬ。山内上杉はまだしも、諏訪や村上如きに舐められるのは堪忍できませぬ」
 髭に覆われた口元を歪(ゆが)め、原虎胤が本音を吐露する。
「さようか……。伊賀守、そなたも同様の意見か」
 晴信は跡部信秋にも訊く。
「はい。鬼美濃殿のお怒りは、ごもっともと存じまする。加えて申せば、こたびのことに留まらず、諏訪頼重には怪しき動きが見え隠れしておりまする。何分にもまだ諜知を続けている最中であり、確証を摑(つか)んでおりませぬゆえ、この場で申し上げるのは差し控えさせていただきまするが」
「皆の心配については承知した……」
 一息おいて、晴信が言葉を続ける。
「……されど、立て直しが始まったばかりであり、当家はまだ大仰な戦を構えられるような状態ではない。加えて、禰々(ねね)のこともあるゆえ、諏訪の件はしばらく余に預けてくれぬか」
 晴信は諏訪頼重に嫁いだ妹に対する気遣いを見せた。
「もちろん、異存ござりませぬ」
 原虎胤が頷く。
「右に同じく」
 跡部信秋も深々と頭を下げた。
 家臣たちも一斉に頷くように頭を下げる。
「では、これにて評定初めを終えたいと思う。皆、大儀であった」
 晴信の締めの言葉に、家臣は一斉に平伏した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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