よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「あの……」
 三条の方が後ろから声をかける。
「ん?……どうした」
「差し出がましいかもしれませぬが、わたくしから禰々殿に何か心持ちの落ち着く品物など送っておきましょうか。ややこが授かった女子(おなご)は、どうしても半年ぐらい不安になり、私にもその気持ちはよくわかりますゆえ」
「ああ、そうしてくれると助かる」 
「お義母様に差し上げました牛頭栴檀などは焚くだけで気持ちが落ち着きますので、香炉と一緒に送っておきまする」
「世話をかけるな、御方」
「いいえ」
「今年は太郎(たろう)も袴着(はかまぎ)だな。早いものだ」
 晴信の言った袴着とは、数えで五歳になった男子が霜月(しもつき)の十五夜に初めて袴をはき、碁盤の上に吉方を向いて立たせ、健勝を願う儀式だった。
 三条の方との間に誕生した長男は、この年で五歳になる。妹の懐妊を聞かされ、晴信は忙しさにかまけ、あまり家族のことを顧みていない己に気づかされた。
「たまには、太郎とも遊んでやらねばならぬな。仔馬にでも乗せてやるか。……いやいや、その前に、新年の凧揚(たこあ)げでもすべきだな……」
 晴信は頭を搔きながら、自嘲をこめて呟く。
 己はほとんど父親に遊んでもらった記憶はなく、そうした遊びの相手はいつも信方だった。
「はい。お願いいたしまする」
 三条の方は嬉しそうに笑った。
 その頃、信方は屋敷に跡部信秋を呼び、話をしていた。
「跡部、先ほどの評定で言いかけたことを、すべて聞かせてくれぬか。若も諏訪のことを安易には考えておられぬ。そなたが調べていることを教えてくれ」
「もちろんにござりまする。以前、諏訪頼重が当家には内緒で村上義清と誼(よしみ)を通じているようだと話しましたが、こたびの佐久の件で、その諜知が正しかったという証(あかし)になったと思いまする」
「確かにな」
「おそらく、村上義清の内諾がなければ、諏訪頼重が長野業正と和睦をすることなどできませぬ。頼重は晴信様が考える以上に当家を謀(はか)る動きをしておりまする。それがしがいま調べているのは、頼重と小笠原(おがさわら)の結託にござりまする」
「小笠原との結託!?」
 信方は驚きの声を上げる。
「……おいおい、松本(まつもと)の小笠原家は長らく諏訪家の宿敵ではないか。その反目があったゆえ、諏訪は当家と手を結んだともいえるのだぞ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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