第三章 出師挫折(すいしざせつ)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
家臣たちが大広間を後にする中、晴信が信方に耳打ちする。
「……先ほどの伊賀守の物言いが気になっておる。諏訪に関して何を調べようとしているか、そなたが聞いておいてくれぬか」
「わかりました。して、若は?」
「まずは母上と話をせねばなるまい。父上の一件以来、あまりお加減が優れず、臥(ふ)しがちになっておられる。加えて昨年末、禰々からも父上の件を聞いていなかったと便りがあり、相当に動揺しているようだと、母上が心配なさっている。できれば、諏訪頼重とは事を荒立てずに済ませたいのだ」
「承知いたしました。……されど、若。鬼美濃や跡部が申していたことにも一理ありまする。裏切りを知っていながら放置すれば、次々に追従する者どもが出かねぬのも、また真実」
信方があえて苦言を呈す。
「ああ、わかっている。余も佐久の件を認めたというわけではない。ただ、必要とあらば、頼重殿と直に話してみるのもよいと思うておる」
「御意! 若がそのようにお考えならば異存はござりませぬ」
「まずは母上とお話しし、少しでも心痛を和らげてさしあげなければな」
晴信は少し顔をしかめながら笑ってみせる。
それから、母親の居室に向かった。
「母上、晴信にござりまする」
「どうぞ。お入りなされ」
大井の方の声が聞こえてくる。
「失礼いたしまする」
晴信がそう答えた途端、音もなく襖戸(ふすまど)が引かれた。
「あ、御方(おかた)……」
視界に飛び込んできたのは、母の枕元に座っている晴信の正室、三条(さんじょう)の方だった。
そして、襖を引いたのは、侍女(まかたち)頭の常磐(ときわ)である。
「常磐まで……。そなたら、おったのか」
少し驚いた面持ちで、晴信は室の中へ入る。
「慶子(けいし)殿がわたくしのために貴重な御香を焚(た)いてくださったのです」
笑顔の母が蒲団の上で體(からだ)を起こしていた。
「お義母(かあ)様のご気分が少しでも良くなればと、牛頭栴檀(ごずせんだん)を」
三条の方も笑みを浮かべる。
牛頭栴檀とは、至高の香木、白檀(びゃくだん)の唐名だった。
「さようか。ご苦労であったな」
晴信は蒲団の脇に胡座(あぐら)をかいた。
「そなたこそ、いかがなされました? なにか、急ぎのお話でもありましたか?」
大井の方が訊く。
「いや、母上のお加減はどうかと思いまして……」
晴信が頭を搔く。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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