第三章 出師挫折(すいしざせつ)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
しばらく差しつ差されつで場が和(なご)み、ひとしきり世間話が終わると、だいぶ酔った原虎胤が急に不満を漏らす。
「……されど、駿河殿も水くさい。御屋形(おやかた)様や武川(むかわ)衆のことなど、事前に一言あってもよかろうに」
御屋形様や武川衆のこととは、武田信虎(のぶとら)の隠居にまつわる万沢(まんざわ)での出来事をさしていた。
あの時、原虎胤は海ノ口(うんのくち)城から佐久(さく)を睨(にら)んでおり、万沢へ来ることができなかった。
というよりも、信方が原昌俊(まさとし)と話し合い、あえて事前に知らせていなかった。
もちろん、海野平(うんのだいら)合戦の直後であり、滋野(しげの)一統の逆襲を警戒しなければいけないという事情もあったが、信方は一本気な原虎胤が主君の隠居に反対するかもしれないという危惧を抱いていたからである。
結果として、武田信虎が万沢から駿河へ引き返してから、事の次第が原虎胤に伝えられた。
「そのことについては、何度も謝ったではないか。そなたが佐久に睨みを利かしておいてくれねば、何も事が進まぬゆえ、あえて伝えなかったと」
信方は済まなそうな表情で言訳する。
「それは、わかっておる。されど、早馬ぐらい出してくれてもよかったであろう。水くさいというか、それがし一人だけ蚊帳(かや)の外……何とも淋しいこと、この上ないわい」
少し旋毛(つむじ)を曲げたように、虎胤がぼやく。
「事前に伝えたならば、そなたの気性からして絶対に新府へ戻ってきたはずだ。佐久への警戒が最も大事とわかっていてもだ」
信方は困ったように呟く。
「まあ、それは否(いな)めませぬ」
「……ならば、あえて訊いておこう」
信方は強面(こわもて)の後輩を真っ直ぐに見つめる。
「そなたは信虎様の覚えがめでたかったゆえ、戻ってしまえば御隠居に異を唱えたのではないか?」
あまりに真率な問いであったため、思わず甘利虎泰と飯富虎昌が眼を見開き、顔を見合わせる。
誰もが原虎胤の真意を知りたいと思っていながら、これまで誰もがこの武辺者を怖れ、訊ねることを避けてきたからである。
しかし、信方は虎胤よりも八つ歳上の上輩であり、気心も通じていると信じていたので歯に衣を着せぬ問いかけができた。
跡部信秋だけが気配を消すように俯(うつむ)き加減で黙っていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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