よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「母上の話では、どうやら禰々が懐妊したようなのだ」
「禰々様がおめでた!?」
 意外な話に、信方は思わず驚きの声を上げてしまう。
「すでに六ヵ月あたりで、この春には、ややこが生まれるらしい。父上の件もあり、禰々はそのことを母上だけに伝えてきたようなのだ。こたびの代替わりのことは、頼重殿に何も伝えておらぬ。やはり、正式に伝えておかねばならぬと思うたゆえ、禰々の見舞いをかねて諏訪へ出向こうかと考えているのだが」
「若が直々に諏訪へ?」
「ああ、できれば、信繁(のぶしげ)と一緒に行きたいと思うておる。あまり大事にしたくはないゆえ、側の者が数名おればよい」
 晴信は弟の同伴を考えているようだ。
 ――今の状況では、少ない護衛で若と信繁様を諏訪へ行かせるわけにはいかぬ。されど、それをいかように説明すればよいか……。
 信方は咄嗟(とっさ)に思案する。
「若、諏訪へ参られるならば、われら家臣の主だった者たちも是非にお連れくだされ。代替わりをしてから、それぞれの役目もだいぶ変わりましたし、先方の重臣と顔合わせしておいた方がよろしいのではありませぬか。個別の案件をどなたと話せばよいかの確認も必要ゆえ」
「うむ……。確かに、そうした必要もある。されど、まずは余から頼重殿に説明をせねばなるまい。おそらく、向こうも突然のことに戸惑うておるであろうからな」
「わかりました。であれば、日程の調整などを含め、それがしと加賀守(かがのかみ)を折衝役に任じていただけませぬか。かの者は若の初陣の時に諏訪家と兵粮(ひょうろう)の折衝をしたこともあり、旧知の者もおりますでしょうから」
 信方は原昌俊を折衝役に指名する。
「それがよいかもしれぬな」
「承知いたしました。では、すぐに手配りいたしまする」
「それで、そなたの話とは何であるか?」
 晴信の問いに、信方は口ごもる。
「あ、ああ……。さほど、たいした話ではありませぬが……。実は信濃と木曾で同時に代替わりがありましたようなので、一応、お伝えしておいた方がよろしいかと思いまして」
「信濃と木曾で代替わり?」
「はい。松本平(まつもとだいら)の小笠原長棟(ながむね)が出家して嫡男の長時(ながとき)に家督を譲り、木曾義在(よしあり)も健康が優れぬようで、嫡男の義康(よしやす)に跡をとらせたとのことにござりまする。跡部が調べましたところによりますれば、小笠原長時、木曾義康は共に永正(えいしょう)十一年の生まれで今年で齢二十九になるとのことにござりまする。相模の北条(ほうじょう)家を含め、これで周囲はほとんど代替わりを終え、若い惣領(そうりょう)が一門を率いるようになりました」
 信方が言ったように、昨年、北条氏綱(うじつな)の逝去により跡を嗣(つ)いだ氏康(うじやす)が齢二十八となっていた。
「なるほどな。諏訪、駿河を含めて二十代か」
 諏訪頼重が齢二十七、今川(いまがわ)義元(よしもと)が齢二十四となり、周囲も見事に代替わりを果たしている中で、晴信は齢二十二と最も若かった。
「そういった意味では、当家の惣領が最も若く、最も注目されているのやもしれませぬ」
 信方はあえて諏訪頼重と小笠原長時が接近している話を伏せた。
 まだ晴信に知らせるべき頃合いではないと判断したからである。
「皆、若い惣領となれば、それだけで仲良くというわけにはいかなそうだな。実際、北条家とは和睦の気配すらない。われらはまだ内憂外患の内憂を取り除かねばならぬ時期だ。外へ出張る余裕はないゆえ、余計な悶着(もんちゃく)が起きなければよいのだが」
 晴信は腕組みをして眉をひそめた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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