第三章 出師挫折(すいしざせつ)10
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
その頃、諏訪頼満(よりみつ)との抗争に敗れた下社の金刺(かなさし)昌春(まさはる)が甲斐の新府に匿われていた。信虎はその金刺昌春を旗頭(はたがしら)とし、下社の奪還という名分を立て、諏訪へ攻め入る。
武田勢は諏訪郡の青柳(あおやぎ)で諏訪頼満と頼隆(よりたか)の父子が率いる軍勢と対峙(たいじ)し、陣馬奉行に任命された原昌俊は高所のシラサレ山に本陣を置くことを具申した。
黎明(れいめい)とともに戦端が開かれ、両軍が富士見高原の神戸で激突するが、布陣での地の利を得た武田勢が勝利した。
「その日の夕刻、境川まで退いた諏訪頼満が下社の者と和解する用意があると申し入れてきた。それがしは信虎様に命じられ、金刺昌春を伴って和談に赴いた。されど、それは罠であった。境川には伏兵がおり、交渉は簡単に決裂した。その後、わずかな手勢しか連れていなかったわれらは、すぐ伏兵に囲まれ、退路を断たれてしまった。しかも後詰(ごづめ)を担っていた金刺の兵どもが伏兵に怖気(おじけ)づき、何もせずに逃げ出したのだ。そのせいで、われらは死地に立たされ、帰還の見込みはほとんどなくなった。されど、武田勢は果敢に戦い、荻原(おぎわら)備中守(びっちゅうのかみ)殿など二百人ほどが討死にし、それがしはその屍を踏み越え、おめおめと一命を拾うた」
原昌俊は過去の己を恥じるように呟(つぶや)く。
「あの時から諏訪の者どもが言うことなど一度たりとも信じたことがない」
「さようなことがありましか」
甘利虎泰が顔をしかめる。
「いや、話はそれだけで済んではおらぬ」
「まだ何か?」
「緒戦で諏訪勢を叩き、本来ならば勝っていた合戦を境川でひっくり返され、信虎様は激怒なされた。その敗戦の咎(とが)として、それがしは地下牢に幽閉された」
「ま、まさか、加賀守殿が!?」
「そうだ。信虎様がお怒りになれば、容赦はなかった。破格の待遇で陣馬奉行を任された身としては、あり得ぬ失態であり、当たり前の罰であったかもしれぬ。ただ、あの時、それがしは幽閉という罰がどのようなものか、まったくわかっていなかった。されど、真っ暗な地下牢に閉じ込められ、時の刻みを奪われ、いつになれば出られるのかさえもわからないと悟った時、心は簡単に折れた。結果として見れば、幽閉されたのは、たかだか十日ほどだった。だが、すでに三日ほどで気力のほとんどを奪われ、その後はいっそ死んだ方がましなのではないかと思い続けた。その時、自害を申し渡されていたならば、おそらく抵抗できずに受け入れてしまったであろう。こんな話を聞けば、それがしが頼重殿の自害にこだわっているのは、私怨からだと思うだろうな」
その問いに、二人は驚きを隠せない。
「……いや、それは」
甘利虎泰が返答を濁す。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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