第三章 出師挫折(すいしざせつ)23
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
腰元から扇を抜き、首元を扇(あお)ぎ始める。
「……まだまだ、蒸し暑いな」
独言(ひとりごと)のように呟(つぶや)きながら、晴信が立ち上がった。
「蔀(しとみ)を開けて夜風を入れよう」
足許のおぼつかなさで、酔いの度合いが予想よりも深いことに気づく。
しかし、それを悟られないようにしながら、隣室を隔てる襖(ふすま)を開けた。
その途端、思わず声を漏らしてしまう。
「えっ!?」
眼前に一組だけ床が取られている。
――なんだ、これは……。
晴信は蔀に近づくこともできず、その場で立ち竦(すく)んだ。
それから、ゆっくりと振り向く。
思った通り、麻亜も瞳を見開き、驚いていた。その瞳には怯(おび)えの色が浮かんでいる。
「……い、いや、違う。違うのだ」
晴信は横に首を振りながら膳の前に戻ろうとした。
その刹那、畳の縁に爪先を取られ、つんのめりながら倒れる。
まるで、慌てて麻亜に抱きつこうとして転んでしまったかのような有様だった。
少なくとも己以外の他人には、そう見えていただろう。
「……お、お許しください」
麻亜は膝を崩し、身を引く。
恥ずかしさのために、晴信の頬が火照る。同時に、こんな無様を晒してしまったことに対し、やり場のない怒りを感じていた。
――なにゆえ、かように差し出がましいまねを……。
そう憤慨しながら晴信は立ち上がった。
「……どうか、お許しください」
袿の襟を押さえながら、麻亜が躙り下がる。
晴信の形相を見て、瞳にうっすらと泪(なみだ)が浮かんでいた。
「だから、違うと申しているであろうが!」
思わず語気を荒らげ、麻亜に向かって歩を進めてしまう。
「……お許しください。……本日だけは、どうか、お許しを」
麻亜は咄嗟(とっさ)に髪を結っていた笄を抜き、己の喉元に尖(とが)った先を向ける。
武門の女子が持たされる笄は、まるで刃物のように尖っており、それはいざという時に小刀の代わりにするためだともいわれていた。
おそらく、麻亜が手にしているのは、初笄のために母親から持たせられたものなのだろう。
「……お許しくださりませ。……今宵だけは、どうか……」
閉じた右眼から溢(あふ)れた泪が、筋となって頬を伝った。
その様を見た刹那、晴信の脳裡(のうり)で白い光が弾ける。
――また、この光景か……。
大きく溜息をつきながら、在りし日の妹、禰々(ねね)と麻亜の姿を重ねていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。