第三章 出師挫折(すいしざせつ)23
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
――何度もうなされる悪夢を見ているようだ……。
晴信は麻亜に背を向け、畳の上に胡座(あぐら)をかく。
「何もするつもりはないゆえ、とにかく眼を開けて余を見よ」
背中越しに話しかける。
その言葉を聞き、まあが恐る恐る瞼(まぶた)を上げた。
「そなたがさようなことをする必要はあるまい。もしも、この身が実父の仇(かたき)だと思うているのならば、その切先でここを貫くがよい」
晴信は素襖(すおう)の襟を緩め、盆の窪(くぼ)を示す。
「非力な女人でも渾身の力で突けば、漢一人ぐらいならば仕留めることができるであろう。その代わりに、その笄を己の喉から外せ。せっかく裳着を済ましたばかりだというのに、さように哀(かな)しいことをするな」
落ち着いた口調だった。
「遠慮するな。腰結役も無事に務め終えたし、そなたに刺されるならば本望だ」
それは嘘や虚勢ではなかった。
しかし、晴信の本音とも少し違う。
惚れた女の前で無様を晒し、好色な漢と勘違いされた己を、ただ放擲(ほうてき)してしまいたかったのかもしれない。
「……できませぬ。……いいえ、したくありませぬ」
か細い声で、麻亜が答える。
「……それに、わたくしには実父などおりませぬ」
「どういう意味であるか?」
「新しい姫様を迎えるために、母上を捨てた人を父などと思うておりませぬ。いえ、思いたくありませぬ!」
思いの外、決然とした口調だった。
晴信は胡座のまま、くるりと振り向く。
「それは本気で申しているのか?」
「……はい、本心にござりまする。母上を捨てたということは、わたくしも捨てたということにござりますゆえ」
「はぁ……」
再び晴信が大きな溜息をつく。
――禰々もそうだったが、女人とはどうしてこうまでも極端な考え方をするのであろうか……。
それが正直な感想だった。
「では、この身はそなたの仇ではないということでよいのか?」
晴信の問いに、麻亜は小さく頷いた。
「……晴信様には、感謝しておりまする。禰津の御家に入れていただき、立派な御裳着の儀を挙げていただきましたゆえ。御側にお仕えすることも、嬉しく思っておりまする。されど、今宵だけは……」
「そなたは勘違いをしておる。余は褥(しとね〈蒲団〉)を用意せよなどと命じてはおらぬ。もちろん、そなたと閨(ねや)を共にするつもりもなかった。それにもかかわらず、気を利かせたつもりで、誰かが余計なことをしたに過ぎぬ」
「……まことにござりまするか?」
「ああ、天地神明に誓ってな。ただ、そなたと少し話がしてみたいと思うただけだ」
晴信は頭を掻きながら言った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。