よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

    四十一 

 高く冴えかえる冬空の下、武田信繁は愁いに満ちた面持ちで薄氷が張った川縁を見つめていた。
 ――魔の一日、あの戦いがあってから、すでに十五日が経った。……それでも、兄上はここから退こうとなさらない。どうしたものか……。
 信繁は小さな溜息(ためいき)をつく。
 ――どうしても負けを認めたくないという御気持ちはわかるのだが、すでに将兵たちの心が萎(しお)れ始めている。
 天文(てんぶん)十七年(一五四八)二月十四日、村上義清との戦いを終えてから、武田勢は大屋の対岸に渡り、新たな陣を築いた。
 そこは千曲川と依田川(よだがわ)に挟まれており、水利を天然の要害として利用できる場所だった。
 当初は村上勢の追撃を警戒し、軍容を立て直すための策略であろうと、武田勢の誰しもが思っていた。
 もちろん、信繁もそのように考えた。
 しかし、まったく動きを見せなくなった村上勢に対し、兄の晴信は諏訪(すわ)へ撤退するのではなく、なぜか新たな陣に留(とど)まり続ける。新たな命令を下すわけでもなく、自ら陣屋に籠もって沈黙を続けていた。
 そんな状態が、かれこれ十五日も続き、将兵たちの動揺は日増しに大きくなり、陣中がざわつき始めた。
 著しい士気の低下を危惧し、信繁は悩んでいた。
 ――駿河守殿と甘利を失うた今、兄上に真っ向から撤退を進言できる家臣はおらぬ。ならば、この身が申し上げねばなるまい。覚悟を決めねば……。
 そう決心し、信繁は兄が籠もる御座処(ござしょ)に向かう。
「兄上、信繁にござりまする。少し、お話を」
「構わぬ。入ってまいれ」
 晴信の返答が聞こえた。
「失礼いたしまする」
「どうした、信繁」
 晴信は何か書き物をしていたらしく、筆を置いて怪訝(けげん)そうな面持ちで弟を見つめる。
 信繁は床几(しょうぎ)に腰掛け、背筋を伸ばす。
 それから、意を決して口を開く。
「兄上、小県(ちいさがた)から退きましょう」
 弟からその言葉を聞き、晴信は感情のない瞳を向ける。そのまま、しばらく黙っていた。
 重い沈黙に耐え切れなくなった信繁が再び口を開く。
「兄上……」
 弟の言葉を遮り、晴信は憮然(ぶぜん)とした面持ちで言う。
「……まだ戦が終わっておらぬ」
「もう、終わったも同然ではありませぬか」
「いいや、終わっておらぬ」
「金瘡(きんそう)の手当も含め、せめて、諏訪へ戻られませ」
「大した傷は、負うておらぬ」 
「何を申されまするか。金瘡はこじらせると厄介にござりまする。充分に用心して養生せねば……」
「大事ない! それよりも今はここに留まり、今後のためにも武田の土性骨というものを村上義清に見せつけることが重要なのだ!」
「これ以上、この地に留まる意味はござりませぬ。……それよりも討死した家臣たちを少しでも早く諏訪へ運び、供養した後に甲斐へ返してやることが大事なのではありませぬか」
 信繁は珍しく感情を露わにし、語気を強めた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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