よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「板垣殿との関係を鑑みれば、母上なら兄上の代わりとなれまする。大永(たいえい)元年(一五二一)に今川(いまがわ)家が甲斐へ攻め入った時、板垣殿は身重の母上を守り、兄上の出産に立ち会ったと聞いておりまする。母上にとっても板垣殿は特別な家臣にござりまする。こたびのことを知り、心を痛めておいでになるでありましょう。もしも、兄上が戦のために諏訪へ戻れぬのならば、母上に惣領の名代(みょうだい)となっていただき、神葬祭を進めるしかありませぬ」
 いささか強引な案ではあるが、信繁の話は筋が通っている。
「ここまでが、それがしの考えた建前にござりまする」
「建前!?」
 駒井政武が眉をひそめる。
「ええ。おそらく、この話を母上にお伝えすれば、本気で兄上の代わりに神葬祭を進めると仰せになるでしょう。そして、さような話を母上から投げかけられたならば、兄上が看過するとは思えませぬ。必ず心が動くはず」
「確かに」
「母上に兄上をお諫めいただくよう仕向ける。そんな己の為体(ていたらく)を情けなく思いますが、今はそれしか案が浮かびませぬ。兄上は怜悧な御方であり、今は抜き差しならぬ感情に囚(とら)われているのだとしても、最後は理合や筋目というものを大事になさると信じておりまする。必ずや、わかってくださると」
 信繁は切実な思いを口にした。
 ――何という聡明さなのだ……。ここまで冷静に物事を見つめ、深く考えておられるとは。
 駒井政武は感心したように信繁を見つめる。
 ――しかも、しっかりと兄上の心情に寄り添っておられる。信繁様は御屋形様と同等……いや、それ以上の智慧者(ちえもの)なのではないか。この器量、先のご成長が計り知れぬほどだ。
「典厩様、お考えはよくわかりました。まったく異論ござりませぬ。すぐに府中の御方様へ早馬を出しましょう。……いいや、われらのどちらかが行き、典厩様の御言葉を直(じか)にお伝えした方がよい。どちらが向かいまするか、勝沼(かつぬま)殿」
 駒井政武が今井信甫に訊く。
 先代、武田信虎(のぶとら)の弟である勝沼信友(のぶとも)の居館と所領を与えられていたため、今井信甫は「勝沼殿」とも呼ばれていた。
「諏訪の備えを考えるならば、そなたがここに残り、それがしが行くべきであろう」
「お願いできまするか、勝沼殿」
「ああ、こうした説得は年寄(としより)に任せよ。亀の甲より年の劫(こう)だ。この後、すぐに出立いたす」
 今井信甫が頷く。
「勝沼殿、よろしくお願いいたしまする」
 信繁が頭を下げる。
「ところで、高白殿。諏訪の周辺で何か気になる動きがありますか?」
「はい。小笠原(おがさわら)の本拠である林(はやし)城に何やら騒がしき気配があり、下諏訪の守りを固めておりまする。こたびの話はすぐに広がり、周囲が蠢(うごめ)き出す恐れもあるかと。予断を許しませぬ」
 駒井政武が険しい面持ちで答える。
「ならば、なおさら兄上に戻っていただき、諏訪を固めねばなりませぬな。とにかく、事を急ぎましょう」 
「承知いたしました」
 今井信甫と駒井政武が声を揃えて平伏した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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