よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十二回

川上健一Kenichi Kawakami

「この市は普通の市街地みたいにヘソがひとつじゃないんだ」と山田が東京弁でしゃべり始めた。水沼と小澤に聞かせるというよりは独り言をいっているような穏やかなしゃべり方だった。視線は車も人もいない道路にぼやり向けている。「だいたいの市は中心部がひとつあって、そのヘソから市街地が広がっているもんだけど、この市の特徴は、昔の炭鉱の坑口の周囲にできた集落が小さな町としてあちこちで栄えたんだ。坑口は一か所じゃなくて散らばって何か所もある。だからその坑口で働く炭鉱夫たちは近くに家を持ったし、会社も社宅を建てた。坑口に近ければ何かと便利だったんだ。そのいくつもの集落がまとまってひとつの市になった。今は市役所がある場所が中心街といえば中心街なんだけど、元々大きなヘソが無い街なんだよ。石炭産業が斜陽になってから市は観光重視への転換を計ったんだけど、金の使い方をまるで分かっちゃいない殿様商売で失敗に次ぐ失敗だ。市は収支悪化を隠すために違法なヤミ起債を繰り返して多額の借金を作ってしまってにっちもさっちもいかなくなった。身動きとれなくなってついにアウトだ。今では財政破綻の市として有名だけど、石炭の採掘が盛んだった往時は景気のいい市で、全国からやってきた労働者やその家族たちで十二万人ほどが暮らしていて活気に溢(あふ)れていたんだ。だけどそれは住民登録された人数で、昔の住人がいうには訳ありで住民登録していない者たちがいっぱい流れ着いてきて、おそらく十五万人くらいはいたんじゃないかっていうんだ。昔ここいらの周辺の開発を札幌の土木会社に下請けに出していて何回かここには来たことがあるけど、暮らしが成り立たなくなった住民が見切りをつけて出て行って、来るたびにさびれた街になってる。今では人口が一万人を切ってるみたいだな。人口が十五分の一になった市って想像できるか? 夕張メロンとか映画祭で頑張ってるけど、何しろ市の借金が膨大すぎて青息吐息だ。未(いま)だに借金返し続けていて、返済が完了するにはまだまだ長い年月がかかる。国民に膨大な借金していて人口が減少している将来の日本の縮図っていうやつもいるぐらいだ」
「映画の看板がいっぱいあるはずなのにどこにも無いじゃない? ここってもう夕張の街なんでしょう? なのに映画の看板はひとつも無いじゃないか」
 小澤が首を回しながらいった。雑誌の写真で見た、映画産業華やかなりし頃の巨大な映画看板が、財政破綻した昭和レトロな古びた夕張の街並みのそこかしこに無数に飾られてあるはずだった。目の届く限りのどこにも無かった。しかし建物や集落のさびれた佇(たたず)まいは、昭和の時代の映画セットのようだった。昭和映画の名作の映画看板がひとつでもあったら、昭和の時代にタイムスリップした感覚が湧くに違いない。
 山田がここの集落には映画看板が無い、市役所のある集落のキネマ街道にいっぱいあると答えて、
「公衆電話があるぞ」
 と指さした。小さな郵便局の横に古びた電話ボックスがあった。水沼は郵便局の駐車場に車を滑らせて停めた。
 水沼は電話ボックスに入って電話機に百円硬貨を入れ、東京の自分の会社のダイヤルを押した。デザイナーの佐伯安里を呼び出して耳を傾けていたが、少ししてから、
「無い? 一軒も?」
 と眉根を寄せてしまった。
「はい。全国の苗字検索アプリで探したんですけど、北海道に夏沢という苗字の世帯数はゼロでした。無(む)、ナッシングです。F県とH県にはそれぞれ十世帯で、他の数県に少しだけ。非常に珍しい苗字ということですね。F県とH県とそれに他の県の夏沢さんを詳しく調べてみますか?」
 水沼は少し考えてから、いやいいんだ、ありがとうといって電話を切った。水沼が電話ボックスを出ると、郵便局のドアが開いて一人の女が出てきた。グレーのセーターを着ていた。コートもジャケットも着ていなかった。身軽な服装だった。手にも何も持っていなかった。近所の住人らしい。水沼は車に戻って運転席に座った。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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