第二章 大湊
八木澤高明Takaaki Yagisawa
「昨日まで暖かかったんだけど、今日は寒いねぇ」
小松野遊廓跡からほど近い場所にある居酒屋に入り、カウンターに腰掛けると、店のママが呟いた。店内には自衛隊のポスターが貼ってあり、ここ大湊が基地の街であることを感じさせた。
「へぇー、東京から来たんですか。それじゃ、凄く寒く感じるでしょう」
私が東京から来たと告げると、滅多に東京の客は来ることはないのだろうか、驚いたような口ぶりだった。
それにしても、小一時間ほど街を歩いただけだったが、小雪まじりで陸奥湾から吹き付けてくる風は冷たく、石油ストーブが焚(た)いてある店内の暖かさが心地よい。思えば、東京の店では炎が見える暖房器具というものを目にしなくなった。石油ストーブというのは、実際の暖かさだけではなくて、炎を見ることによって視覚的にも心が休まるような気がする。
名物のホタテなどをつまんでから、小松野遊廓の昔話を聞いてみた。
「私が物ごころついた頃でも、遊廓はまだやっていたけどさ、女だから別に用があるわけじゃないしね。昔は遊廓の建物もたくさん残っていたけど、今じゃ駐車場になっちゃったりして、ほとんど残ってないでしょう。映画の『飢餓海峡』の撮影もこの辺の遊廓でやったからね」
こちらから振らずとも、ママの口から出た『飢餓海峡』は、小松野遊廓を知る人にとっては、欠かせないキーワードのようだ。考えてみれば、ちょうどママが眺めていた戦後直後の小松野遊廓が『飢餓海峡』の時代設定である。
「遊廓がなくなったあとには、飲み屋さんももっとあったんですよね?」
「そうね。自衛隊が元気だったからね。昔は、自衛隊の方まで店が並んでいたのよ。今の若い子たちは、外に出て来ないで、ゲームばっかりやってるみたいね。だけど遊ぶところって必要だと思うよ。つい最近も自衛隊の人が捕まってるし」
大湊の自衛隊員が捕まった事件は、たまたまニュースで目にしたこともあり知っていた。事件の概要は、二〇一九年一月三十日の深夜に大湊基地を母港とする護衛艦「すずなみ」の三等海曹で二十六歳の男性が、全裸でむつ市内を徘徊していた疑いで、現行犯逮捕されたというものだ。その二週間ほど前には、海上自衛隊大湊病院に所属する自衛官の男が、八戸市内の図書館の女子トイレに侵入し盗撮目的の疑いで逮捕されている。
大湊だけではなく、日本各地で自衛隊員が性に絡んだ不祥事で逮捕される事件は毎月のように発生している。そうした事件が、色街の衰退によるものだと言うわけではないが、性に対する欲望を発散できる場所があれば、少しばかりは事件を防げたのかもしれない。
私は大湊以外にも、自衛隊基地周辺の色街を歩いて来たが、埼玉県の朝霞、福岡県の芦屋など、ここ数年で色街としての役割を終えた場所がいくつもある。特に売春はSNSを通じて行われることが当たり前となり、売る方も買う方も、店という場所を経由せずに直接やり取りするようになった。そうした風潮も色街が消えていった一因だろう。
「今はもう表立って、体を売る女性はいないのかもしれませんが、何か当時のご記憶などはあるんですか?」
ママは「そうね」と言って、しばし考えてから口を開いた。
「米兵が大湊に来てね。その頃米兵を相手にする飲み屋さんなんかもあったのよ。ここから近い所にカサブランカという店があってね。一階がダンスホールみたいになっていて、二階がそういうことをする部屋になっていたのよ」
「何で知っているんですか?」
「店で米兵の相手をしたわけじゃなくて、その頃カサブランカの掃除のパートをやっていたのよ。それで知っていたの」
カサブランカの建物はすでに無くなっていて、建て替えられて今では居酒屋になっているという。
大湊に米軍が進駐したのは、終戦から一ヶ月も経っていない一九四五(昭和二十)年九月八日のことだった。終戦が意味することは、色街の客も日本海軍から米軍へと移ったということだ。米軍の進駐は一九五六(昭和三十一)年まで続いているので、ママが見たカサブランカで行われた売春というのは、その頃のことになる。
青森には、大湊や青森市内、三沢などに一万五千人が進駐した。大湊には二千五百人の米兵がいた。
明治時代に旧日本海軍に付随する形で色街が発展し、旧日本軍が解体されると、軍事施設ばかりではなく、色街も米軍に引き継がれていったのだった。
旧日本軍から米軍という流れが、明治から昭和、さらには平成まで続いた多くの基地周辺の色街にはあった。もし日本が米軍を受け入れていなければ、これまで色街が存在することはなかっただろう。
色街には、繰り返しになってしまうが、人間の欲望ばかりではなく、政治や経済との関わりが根源にあるのだ。
- プロフィール
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八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。