第三章 出師挫折(すいしざせつ)24
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
晴信は義元と差しつ差されつ、酒を酌み交わしながら話をする。その脇では信方と雪斎も相伴していた。
「晴信殿、次は駿府(すんぷ)で歌会というのはどうであろうか?」
義元が遊興の誘いを持ちかける。
「それは是非にお願いいたしまする」
「当方では毎年の正月十三夜を歌会始めとし、毎月の十三夜にも月次(つきなみ)の会を催しておる。京からも指南の御歴々が参られ、能を観賞したりもする。御方(おかた)やそなたのお父上もこの月次の会を楽しみにしておられるようだ」
その話を聞き、少し晴信の顔が曇る。
「ああ、これは余計なことを申してしまったかな」
「……いいえ、姉や……父は、元気にしておりまするか?」
晴信が気を取り直したように訊ねる。
「二人とも息災にござる。この前、信虎(のぶとら)殿は上洛なされ、蹴鞠(けまり)指南の飛鳥井(あすかい)雅綱(まさつな)卿や山科(やましな)言継(ときつぐ)卿らと畿内(きない)を遊山(ゆさん)したそうで、ずいぶんとご機嫌な様子で駿府へと戻られた。さすが甲斐の猛虎と呼ばれた御方だけに、都での散財も豪快のようであったが。のう、雪斎」
「……まことに、信虎様は遊び上手な御方にござりまする」
雪斎が当たり障りのない返答をする。
それを聞いた信方が慌てて取り繕う。
「遊山の料足(りょうそく)をお立て替えいただき、まことに申し訳ござりませぬ。すぐに当方で皆済(かいさい)させていただきまする」
料足とは費用、皆済とは清算のことだった。
「さように水くさいことを申されまするな、駿河守殿。御屋形様はそのような意味で仰せになられたのではありませぬ」
雪斎は主(あるじ)のために弁解する。
「晴信殿、余は何か失礼なことを申したであろうか?」
義元はまったく悪気のない表情で訊く。
「いいえ、何も礼を失した言葉などありませぬ」
「それはよかった。晴信殿が御父上を心配なさる気持ちは、ようわかる。されど、信虎殿は御隠居の暮らしがすっかり板に付き、御方と一緒の駿府も気に入っていただいようで、以前のように『甲斐へ戻るゆえ兵を貸せ』とは仰せにならなくなった。だから、ご心配、なされまするな」
「……今後とも、姉や父をよろしくお願いいたしまする」
晴信は神妙な顔で頭を下げた。
側近の二人は気配を殺し、主君たちのやり取りを見守っていた。
この後も話は続き、一度は二人で上洛を果たそうという約束まで交わした。
こうして今川家との会談は首尾良く終わり、両家の契りを確認するために血判を入れた書状を取り交わす。
そして、晴信は八月十三日に新府へ戻った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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