よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)24

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「この戦も呆気(あっけ)なく終わってしまいました」
 晴信の言葉に、義元は笑みを浮かべて首を横に振る。
「いやいや、晴信殿。この戦、これからが見物(みもの)。退屈はさせませぬ」
「まだ、続きがあると?」
「さよう。おい、大地図をこれへ」
 義元は側に控えていた瀬名(せな)氏貞(うじさだ)に命じる。
「はっ」
 今川の家臣たちが四人で二畳分の大地図を運び入れた。
「ご覧くだされ、晴信殿。われらがいる吉原城はここ」
 義元は扇で地図上を指す。
「そして、この城を捨て、北条長綱が逃げ込んだ先は、ここ。東へ五里(二十`)ほど行った長久保城にござる。挙兵のついでに、この城も落としておきたいと存ずる」
「長久保城……つまり、箱根(はこね)の入口となる三島(みしま)まで攻め寄せると」
「さよう。伊豆の韮山(にらやま)までは攻めぬとしても、この長久保城から北条勢を撤退させれば、河東の件は決着となり申す」
 自信に満ちた面持ちで、義元が笑みを見せる。
「なるほど……」
 晴信は深く頷いた。
 ――なるほど、今川家はこの際に北条との境界を箱根の天嶮(てんけん)とするつもりか。東坂の三島側を制することで自然に両家の版図(はんと)に線が引かれる……。
 晴信が考えた通り、箱根は東海と坂東を隔てる天下の峻険(しゅんけん)といわれており、それは三島から箱根へ上る西坂四里と小田原から箱根へ上る東坂四里に分かれている。
 つまり、頂上の箱根は東海道最大の難所であるとともに、この箱根八里が天然の関の役目を果たしていた。
 室町幕府においても箱根は、京の公方と鎌倉公方が暗黙の境界としており、いかに天下の公方といえども、坂東勢を束ねる鎌倉公方を無視してこの天嶮を越えることはなかった。
 北条家は伊豆と相模を領国とし、この箱根を制することで双方の通行を円滑にしていたが、今川家が三島を押さえると事情が変わってくる。
 義元が言ったように、今川家が西坂の入口を制してしまえば、当然のことながら河東の問題も解決する。
『長久保城まで兵を押し出す』
 そう言い切った義元の真意は、「もしも、北条家と和を結ぶにしても、互いの境界線は三島以外はない」というところにあると思われた。
 ――おそらく、和睦を取り持つとしても、そのことを念頭に置いてくれという義元殿の投げかけであろう。
 晴信はそのように理解していた。
 ――それならば、われらとしても東側を走る若彦路(わかひこじ)の風通しが良くなり、願ったり叶ったりだ。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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