よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)24

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「北条家と再び和を結べることを、余も嬉しく思う。氏康殿に、よろしくお伝えくだされ。御武運をお祈りしている、と」
 義元は柔和な笑みを浮かべて答える。
 確かに、北条家の真の正念場は、この和睦の先にあった。
「武田大膳大夫(だいぜんのだいぶ)殿、こたびは和議の御仲介、まことに有り難く存じまする」
 北条長綱は晴信に向き直り、深く頭を下げる。
「お役に立てましたならば、幸い」
「何よりも素早き調停をしていただいたことに感謝いたしまする。改めて、主より御礼があるとは思いますが、当家の事情をお酌み取りいただき、今川殿をご説得いただいた御恩は一生忘れませぬ」
「いや、氏康殿の即断があればこその和議成立であった。これを機会に、今後とも三家が和を保てることを願うておるとお伝えくだされ」
「有り難き御言葉、そのまま伝えさせていただきまする。では、これにて失礼いたしまする」
 もう一度、礼をしてから北条長綱は踵(きびす)を返した。
 その背を見ながら、義元が呟く。
「あの方は北条家の初代、伊勢(いせ)早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)殿の末子で、余と同じく幼い頃は僧籍にあった。入部(にゅうべい)先は箱根権現の別当寺(べっとうじ)、金剛王院(こんごうおういん)。長綱殿は僧門にありながら、幼い頃から兵法用兵術の修学も欠かさなかったと聞いておる。おそらく、早雲殿が箱根を越えて東へ出ることを想定して箱根権現へ入れたのであろうな」
「さようにござりましたか」
「第四十世別当職であった長綱殿がおられる限り、箱根権現とその一統は北条家に与(くみ)し続けるのではあるまいか。ゆえに、その一命は、河東の城や領地よりも遥かに重い。氏康殿は即座に、そう判じたのではないか」
 その言葉の意味を、晴信もすぐに悟る。
「なるほど。箱根の与力があるならば、三島を通らずとも、小田原と伊豆の韮山は繋(つな)がることができると」
「お察しの通り。しかも、われらとの和睦があれば、最悪の時はいったん小田原を捨て、伊豆まで撤退すればよい。いくら古河公方と関東管領の軍勢であっても、簡単に箱根を越えることはできぬ。狭隘(きょうあい)な箱根八里の坂を大軍は押し通ることができず、兵は細い列になって進まざるを得ぬ。しかも、周囲には地勢に精通した野伏(のぶせり)が敵として潜んでいる。大軍の利など、まったくない。そんな行軍を考えただけで、背筋がぞっとしませぬか」
「確かに」
「当家も坂東勢が易々(やすやす)と箱根を越えることは歓迎せぬ。せめて、相模で駒を止めてもらわねば。……さて、これから、どのような戦模様になることやら。まずは、坂東勢のお手並みを拝見というところか」
 あいかわらず笑顔で義元が言う。 

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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