よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 元々は「漢の将軍、周(しゅう)亜夫(あふ)が匈奴(きょうど)征討を命じられた時、細柳(さいりゅう)という地に陣を置き、軍規を徹底させながら討伐を行い、文帝(ぶんてい)から称賛された」という故事にならい、「柳営」が名将軍の陣営を讃える言葉となった。
 それが転じ、当世では御柳営が征夷大将軍の軍営、すなわち幕府のことを示すようになった。
「やはり、公方(くぼう)殿と細川(ほそかわ)晴元(はるもと)殿の仲違(なかたが)いが収まりませぬか……」
 晴信が嘆息を漏らす。
 この頃、公方と呼ばれていた将軍の足利(あしかが)義晴(よしはる)は、自ら管領(かんれい)の座にのし上がった細川晴元と反目し合い、ことごとく対立していた。
 本来ならば、武門の長者であるはずの足利義晴は、戦で争っては細川晴元に敗れ、近江国坂本(おうみのくにさかもと)か朽木(くつき)へ逃れるという為体(ていたらく)だった。
 しかし、この諍(いさか)いの元凶は、管領職を世襲するようになって京兆(けいちょう)家と呼ばれた細川の宗家に起こった内訌(ないこう)にある。
 明応(めいおう)の政変(一四九三年)において第十代将軍の足利義材(よしき)(※後の義稙〈よしたね〉)を廃立し、足利義澄(よしずみ)を第十一代に擁立した細川政元(まさもと)は、管領の立場ながら半将軍と揶揄(やゆ)されるほど完全に幕府の実権を掌握した。
 この漢(おとこ)には一風変わったところがあり、修験道にのめりこんで女人を近づけなかったことから実子を持てず、細川京兆家の嫡流を途絶えさてしまったのである。
 その代わりに、澄之(すみゆき)、澄元(すみもと)、高国(たかくに)の三人を養子に迎えたが、政元自身が後継を指名しないうちに暗殺されてしまう。
 当然のことながら三人の養子をそれぞれ後押しする細川一門の諸勢力が対立し、激しい内訌が始まった。
 細川澄之が敗死した後、澄元と高国の両派が対立し、公方家においても足利義澄と義稙の後継争いが始まり、足利家と細川家を二分する戦いは畿内(きない)を争乱に巻き込みながら二十年以上も続いたのである。
 その細川家内訌に終止符を打ったのが、細川澄元の嫡子、晴元であった。
 細川晴元は内乱の状態にあった一門を何とかまとめ、細川京兆家の惣領を自称し、管領職に就く。
 そして、七年前の天文(てんぶん)八年(一五三九)、阿波(あわ)の三好(みよし)長慶(ながよし)が同族の政長(まさなが)と河内(かわち)領を巡って争い始めた際に、細川晴元は三好政長に肩入れし、実力のあった三好長慶と対立した。
 これに公方となった足利義晴と六角(ろっかく)定頼(さだより)が介入し、細川晴元と三好長慶を強引に和睦させたのである。
 すると、今度はその裁定に不満を抱いた細川晴元が、公方の足利義晴に反撥(はんぱつ)し始める。義晴は晴元に対抗するため、六角定頼を管領代に任命し、再び戦いが起こった。
 この争いに、三好長慶や細川高国の残党までもが加わり、再び畿内は収拾のつかない戦乱状態に陥り、そのまま現在に至っている。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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