よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この和漢聯句の会が開かれたのは七月二十六日であったが、実はその翌日、京の都で足利菊幢丸の命名の候補が内定した。
 朝廷からは「義藤(よしふじ)」の名が提案され、それを受ければ十一月の半ばには「左馬頭に補任される」と通達される。
 このことは後日、甲斐に滞在していた三条西実澄にも早馬で知らされ、晴信へ伝えられた。
 躑躅ヶ崎館に留まっていた晴信は、原昌俊と駒井(こまい)昌頼(まさより)を呼ぶ。
「どうやら、年内には将軍位が移譲されると決まったようだ。これまで反目し続けてきた公方殿と晴元殿がすぐに和解するとは考えられぬが、いずれにせよ、畿内で幕府を巡る大きな動きが起こるであろう。余は公方殿に進物を贈り、晴元殿には探りを入れておく。昌頼、そなたは今川家に何か動きがないか、探ってくれぬか」
「承知いたしました」
「加賀守、こたびの信濃守補任の礼物はどうなっているか?」
「御主上へ寄進する一万疋(びき)の御料領を目録にしてありまする。御料は年貢として進上する予定にござりまする」
 原昌俊が答えた。
 この一疋という単位は銭十文に相当するとされ、一万疋の御料領は十万文の価値となる。
 だが通常、疋と文の単位は併用されず、銭は麻縄の銭緡(ぜにざし)に千文を通したものが一貫と呼ばれ、百疋をもって一貫に相当する。
 つまり、一万疋の御料領は銭にして百貫相当の寄進ということになり、これを名産品などに替えて年貢として納めるということだった。
「さようか。勅使の御二方に和漢聯句の束脩(そくしゅう)を渡してほしいのだが、その際に次なる願い事を伝えてほしい」
 束脩とは、指南料のことである。
「朝廷からの周旋で、新たな公方殿に信濃守護の補任をお願いするということにござりまするな」
「その場合、更なる御料領の加増は、いかほどが妥当だと考えるか?」
 晴信の問いに、原昌俊が髭をしごきながら思案する。
「……当家が信濃十二郡を制した暁には、御料領三万疋の加増をしたいと申し入れるのはいかがにござりましょう」
「三万疋か」
「もちろん、十二郡を制する前に信濃守護補任が決まれば、それでも三万疋の加増。信濃一国を掌中に収めるための大義名分が得られるのであれば、決して高くはありませぬ」
「よし。では、それを口頭で伝えてくれ。正式な書状は後ほど送るゆえ」
「わかりました」
「佐久(さく)から小県(ちいさがた)へ出張る時期を少し早めねばならぬかもしれぬな」
 晴信は腕組みをしながら呟いた。
 翌日、原昌俊は二人の公卿を訪ね、御料領の目録と和漢聯句の束脩五十貫を渡す。
 その際に、信濃守護補任の周旋を依頼し、御料領の加増を申し入れた。
 三条西実澄と四辻季遠はそれに喜び、御主上への朗報を携えて京の都へ戻っていった。
 晴信は信濃守補任を記念する進物を諏訪大社に納め、同時にかねてから懸案とされていた麻亜(まあ)との祝言を行う。
 この時から麻亜は正式に側室と認められ、禰津御寮人(ねづごりょうにん)と呼ばれることになった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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