よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで鴨南蛮と揚げ饅頭

深緑野分Nowaki Fukamidori

「三条さんは、感染症のことを書きたいですか?」
 そう訊(き)かれてしまうと、ぐっと言葉に詰まる。正直なところわからないのだ。書きはじめたら手に負えない感じがするし、持っている知識もテレビのニュースやインターネットの記事で知った程度、本格的に書くのならばちゃんと向き合わねばならない気がする。
「まだ、なんとも言えないです……」
「そうですか。まあ、あまり気負わないで、思いついたストーリーを素直にお書きになるのが、三条さんには合ってる気がしますよ。最初の一冊は好評だったし、その勢いで書いていただいた方がいいと思います」
 そう言うと朝田さんはあっさり話を終え、いつもの颯爽(さっそう)とした足取りで私の半歩前を歩き出した。
 外に出ると、正午間近の明るい日差しが眩(まぶ)しくて、私は目を細めた。冬が近づき、すっかり冷たくなった風が、落ち葉をかさこそと運んでいく。
「これから会社に戻るんですか?」
 正面玄関まで見送りに来てくれた朝田さんが訊(たず)ねてくる。たぶん私がスーツを着ていたせいだろう。しかしこれは、今日の打ち合わせに何を着ればいいのかわからず、クローゼットの前でさんざん悩んだ挙げ句、会社にいつも着ていくものを手に取った、というだけだ。
「いえ、今日は一日お休みをもらったので、このまま帰ります」
「そうですか。道中お気をつけて」
「ありがとうございます。それでは」
 御礼を言って踵(きびす)を返し、ぎくしゃくと歩き出す。右手と右足が一緒に出たらどうしようと思いながらふと振り返ると、朝田さんの姿はもう消えていた。
 きっと忙しいんだろう。それにもし私が去るまでずっと見られていたら、なんだか気まずい。だからほっとして良いはずなのに、どこかがっかりしたような寂しいような複雑な気持ちが、淀んだ水みたいに心の底をたゆたう。
「私って、期待されてないのかなあ」
 ため息まじりに呟(つぶや)いた言葉は、街路樹の黄ばんだ葉と一緒にくるくると落ちた。

 私は、物心がついた時から本が好きだった。大きな絵本を抱えてお話の国に潜り込み、リスやネズミとおやつを食べ、木のうろで丸まって眠り、謎の地下王国を探検した。
 外で遊ぶのは苦手だった。父は年中仕事が忙しく、実質的には母親と祖母に育てられた一人っ子の私は、大きな声で騒ぎ遊ぶ同じ年頃の子どもたちと、どう遊んだらいいかわからなかったのだ。鉄棒に群がり、滑り台の上で地団駄を踏んで泣き、ブランコをものすごい勢いで漕ぐ子どもたちが、少し怖かった。もし転んでメガネが割れて、目に突き刺さったらと思うと、走ることも恐ろしかった。そんな私を子どもたちはみんな「メガネのみえっぺ」とからかった。友達と言えたのは、同じマンションに住んでいた幼なじみの春子(はるこ)ちゃん、通称はるちゃんだけだった。

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

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