ひとりで鴨南蛮と揚げ饅頭
深緑野分Nowaki Fukamidori
感染症の蔓延が多少落ち着いているとニュースでは言っていたが、それでも少し緊張はする。私はしばらくあたりを歩いて、このままこの近くの店に入ってしまおうか、それともやっぱり、もう家に帰って自炊しようかと悩む。
その時、ふとお出汁(だし)のいい香りが漂ってきた。これはうちではなかなか味わえない、「丁寧に取った良いお出汁」の香りだ。思わず唾を飲み込み、ぐう、とお腹が鳴る。
においの元をたどっていくと、私は一軒の蕎麦処(そばどころ)を見つけた。比較的新しい建物で、最近建て替えられたのかな、と想像する。軒先に置かれたメニューには、好物の鴨(かも)南蛮蕎麦があった。気分はまだ鬱々としていたけれど、美味(おい)しいものでも食べてリフレッシュしたかった。
「いらっしゃいませー」
入口に立つ、白いマスクに白い三角巾、白いお仕着せ姿の店員さんに導かれるまま、私は店頭で手を消毒しお店の中へ入った。
正午をとうにすぎていたためか、広い店内に人はまばらで、窓際の席と、奥の席に二組ずついるばかりだった。
私はメニュー表を見る前に「あったかい鴨南蛮蕎麦を下さい」と店員さんに注文すると、マスクをずらしてお冷やを飲んだ。たちまち、店内に充満しているお出汁のいい香りが鼻腔(びくう)に広がり、ほっとため息が出る。それでもすぐにまたマスクをして、ぼんやり厨房(ちゅうぼう)の様子を眺めた。
ぐらぐらと沸き立つお湯、上がる湯気。私は湯気というものが大好きだ。高温で熱せられて立ち上るので、とても清潔な気がするから。厨房の中の人たちは私の頼んだ鴨南蛮蕎麦を作りはじめたようだ。みんなめいめいマスクをつけて。
店内にいる他の二組の客は、食事中だからかマスクをしていなかったり、それぞれだ。私は、ああ、今この瞬間、ウイルスが見えたらいいのにと思った。ここはウイルスゼロパーセント。そんな表示が目の前に現れたら、どんなに安心だろうか。
――このことを小説に書いたらどうだろう。でも担当編集者の朝田さんは、私が「感染症について書くべきか」と訊ねた時、それほどいい顔をしていなかったように思える。
――「まあ、あまり気負わないで、思いついたストーリーを素直にお書きになるのが、三条さんには合ってる気がしますよ」
私が思いついたストーリーを素直に書く。それって、たとえば今がそう? でも菌が見える主人公の話なんて、少し前に流行った漫画にあったし、ネタがかぶっている。だとしたら感染症流行下の不安を何か……そんなことを考えていたら、すぐそばでふわりと温かな気配がして、私は瞼から手を離した。
「お待ちどおさま」
目の前のテーブルに、どんぶりが置かれる。想像していたよりも浅いどんぶりで、なんだか佇(たたず)まいが上品だ。私はマスクを外し、鞄の中のマスクケースにいったん入れる。たちまちお出汁の香りが体を包み込む。
薄茶色のお出汁がたっぷり入ったどんぶりには、下から順に色白のお蕎麦、美しく並んだ鴨肉、三つ葉、炙(あぶ)った白葱(しろねぎ)、そして鮮やかな黄色い柚子(ゆず)の皮がひとひら。ああ、柚子のいいにおい。爽やかだけどどこかほのぼのとした、落ち着く香り。
- プロフィール
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深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。