よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで鴨南蛮と揚げ饅頭

深緑野分Nowaki Fukamidori

 私は角のラーメン店を左に曲がり、蕎麦店から通りひとつ隔てた界隈に戻ってみることにした。ここにはまだ白い暖簾を下げた、古い家並みが続いている。少し歩いた先に「あんこう鍋」の文字が見え、まだ営業中であったが、さすがにお蕎麦を一人前食べた後には重たい。
 どうしたものか、駅前まで戻ってどこかのカフェにでも落ち着こうかと思ったその時、ふと向かいの店に「甘味」と書かれているのを見つけた。二階建ての日本家屋で、一階の植込みに緑が茂っている。外のメニューには、お汁粉や揚げ饅頭(まんじゅう)の文字と写真が並んでいた。私はその重たいガラスの引き戸を開けて、中に入った。
 それなりに客がいて、なかなかの人気店のようだ。
「お好きな席へどうぞ」
 入口で備え付けの消毒液を手指に吹きつけていると、エプロン姿の感じの良い店員さんが声をかけてくれ、私は奥のテーブル席に落ち着くことにする。トレンチコートを脱ぎながら、店員さんが出してくれたメニュー表を眺める。粟(あわ)ぜんざいに、おしるこ、揚げ饅頭。あんみつもあった。
 粟ぜんざいも気になるけれど、私は揚げ饅頭の写真に唾を飲み込み、店員さんを呼んで「揚げ饅頭を下さい」と頼んだ。
 背もたれの短い椅子にトレンチコートを引っかけ、ぼんやりと店内を眺める。店の面積は先ほどの蕎麦店の三分の一くらいだろうか、狭くはないけれど、広いというほどでもない、いかにも甘味処といった風情の店内だった。奥は厨房、配膳カウンターの上にある壁に、和紙に筆で書かれたお品書きが並んでいる。それによると、レジでお土産も買えるようだ。
 座った途端、淡いピンク色が愛らしい桜湯が出された。さっそくふわりとした桜の香りを楽しむ。そういえば子どもの頃は、桜湯が苦手だった。桜餅の葉っぱもいつも残して、母か祖母に食べてもらっていた。この味と香りが嫌いだったのだろう。いつの間にか好きになって、残さないようになったけれど、それがいつからだったかは思い出せない。
 読者に共感≠オてもらうことをさっきからずっと考えていたけれど、こうした小さい出来事だって、じゅうぶん共感≠呼ぶのではなかろうか。別に感染症のことは出さなくても、ほんのちょっとしたこと、誰もが心に仕舞っている思い出のこと、そんな素朴な物語だっていいんじゃないだろうか。
 うーん、迷うなあ。わからない。さっきから思考があっちに行ったりこっちに行ったりだ。
 そうこうしていると、お盆に載せられた揚げ饅頭とお茶がやって来た。真っ白い紙の上に、ひよこみたいに黄色い揚げ饅頭が、ふたつ、重なって並んでいる。揚げ衣で饅頭のまわりがひだのようになっていて、見た目だけでもサクサクと美味しそうだ。
 私は割り箸をぱきっと割り、揚げ饅頭をひとつ取ってかぶりついた。
「はぐ!」
 あっちち、と声に出そうになって、堪える。揚げ饅頭は揚げたてで、衣はサクサク、油がぐじゅじゅっと滲(し)みだして、なんとも背徳的な気分。たしか砂糖と炭水化物と油の組み合わせって、すごくハイカロリーなのではなかったかしら。揚げ衣の向こう側にはふわふわ柔らかな饅頭と、しっとりした漉(こ)し餡(あん)がたっぷり入っている。

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

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