第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「若、いかがなされましたか?」
信方が驚いたように晴信を見る。
「……なんでもない。ちょっと差し込みがあっただけだ」
「癪(しゃく)にござりまするか……。お加減が悪いのならば、仕切り直しをいたしましょうか」
「……いや、続けてくれ」
「はあ、わかりました」
小首を傾(かし)げながら、信方が話を続ける。
「では、於太。何か申しておきたいことがあれば聞いておくが」
「……はい。懼(おそ)れながら申し上げますが、……われらはすでに……頼重様の縁者ではありませぬ。そのことを……御承知願いたく存じまする」
於太は必死で震えを抑えながら言う。
「それは、いかなる意味であるか。そなたの娘は、確かに頼重殿との間に授かった子ではないか」
「……いいえ、頼重様が武田家の姫様を御正室として迎えられることが決まった時、われらは捨てられ、縁が切れておりまする。もはや、於麻亜(おまあ)は頼重様の子ではありませぬ。わたくしの生家が麻績(おみ)にありますゆえ、どうか、そこへお帰しいただけますよう、御願い申し上げまする。二人でひっそりと生きていきますので、どうか、お情けを……」
「うぅむ、それは難しいな。麻績と諏訪は近すぎる。その麻亜という娘が頼重殿の実子である以上、それを利用しようとする者が出てくる恐れがあるのだ。諏訪の者でなくとも、小笠原(おがさわら)や村上(むらかみ)が、そなたらを掌中に収め、諏訪家の正統と言い張るやもしれぬ」
「……さ、されど、われらは諏訪家と縁が切れておりまする」
「残念だが、さように思わぬ者もいるのだ」
「……どうか……どうか、命だけはお助けくださりませ。せめて、この子だけでも。わたくしは、どうなっても構いませぬ」
「案ずるな。当家としても、できれば事を荒立てたくないと思うておる。さて、麻亜とやら。そなたは、何か申しておきたいことはないか?」
信方の問いに、麻亜は長い睫毛(まつげ)を伏せる。
その仕草にも、はっとするような儚(はかな)い美しさがあった。
「……特段……ござりませぬ」
麻亜は憂いを含んだ声で答える。
「そなたは、今年でいくつになるのか?」
「齢(よわい)十六にござりまする」
「裳着(もぎ)は?」
信方が言った裳着とは、男子ならば加冠元服にあたる女子成人の儀である。
「……済んで……おりませぬ」
御裳着は婚姻前の十二、三の頃、遅くても齢十五ぐらいまでに行われるのが通常だった。
つまり、着裳(ちゃくも)が済んだ女子は成人と認められ、婚姻ができるということである。
「さようか。色々と事情が重なり、遅れていたということか」
信方の言葉に、麻亜は哀しそうな面持ちで小さく頷いた。
その美しい憂い顔に、晴信の目が釘付けになる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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