第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
一方、新府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館では、人知れず晴信の姿が消えたと大騒ぎになる。
原昌俊はいち早く、そのことを知った。
――信房もいないところをみると、おそらく二人だけで夜中にお出掛けになったのであろう。ならば、行先は、諏訪か!
そう考え、自ら愛駒を駆って上原城へ向かった。
若神子城で晴信の所在がないことを確かめてから、一気に諏訪まで駆け抜ける。
上原城へ入るなり、まずは信方の処へ行った。
「信方、御屋形様の姿が消えたと新府で大騒ぎになっている」
「……ああ、やはりな。若はここの客間で寝ておられる」
「さようか」
原昌俊は安堵(あんど)の表情となる。
「夜中に参られたのか?」
「そう、突然な」
「新府でも少し御様子がおかしかった。何か、あったのか?」
昌俊は訝(いぶか)しげな顔で訊く。
「……そなたに相談したいことがある。来てくれ」
信方は同輩の袖を引き、居室へ向かう。
人払いをして二人だけで向き合い、信方は己の知りうる限りの事柄を伝えた。
それを聞き、原昌俊の表情がみるみるうちに曇っていく。
「御屋形様が一目惚れか。しかも、想い人が諏訪頼重の隠し子とはな、厄介なことになった。さような相手では側に置くことも難しいのではないか。側室にでもすれば、父親の仇(かたき)として寝首を搔かれるという恐れもある。ところで信方、麻亜という娘は、それほどの器量なのか?」
「確かに、最初に見た時はそれがしも驚いた。何というか、幽玄に思えるほどの美しさを持った娘ではある。それに……」
信方は思案顔になる。
「それに?」
「うまく言えぬのだが……」
「この身を相手に身構えるな、信方。思うたままに申せ」
「ああ、これは私見に過ぎぬが、どこか寂しげで儚い感じがする美しさは……その、大井(おおい)の御方様に似ているというか……。そなたも感じたことはないか。大井の御方様を包んでいる憂いの霞(かすみ)のような気配」
信方は麻亜と晴信の母親に共通する気配を感じ取っていた。
「思い当たる節はある。確かに、あの沈んだ横顔は、お美しい。つまり、そなたが言いたいのは、その娘が御母君に似ているゆえ、御屋形様が惹かれたということか?」
「断言はできぬが、あの麻亜という娘の境遇を覆う陰がかえって美しさを研ぎ澄まし、それが大井の御方様を彷彿(ほうふつ)とさせるのではないかと思う」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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