よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「加賀守、信房を責めないでやってくれぬか。余が無理やりに連れ出しただけだ」
「はい。それも心得ておりまする」
 原昌俊が笑顔で頷く。
「では、着替えをする。信房、支度を」
 晴信は身を縮めて俯いている教来石信房に命じた。
 信方と原昌俊は、礼をしてから室を出る。
 身支度を調えた晴信と教来石信房が、原昌俊と一緒に上原城の馬場へ向かった。
 見送りに出た信方は、さりげなく近習頭に耳打ちする。
「信房、今後また、このようなことがあっても、黙って若に従え。ただし、そなたが信頼できる者一人だけに行先などを告げ、加賀守の耳に入るようにしておけ」
「しょ、承知いたしました」
「頼んだぞ」
 信方は教来石信房の肩に手を置いて力をこめた。
 新府へ戻った晴信は、何事もなかったように政務を片付け始める。信方に話をしたことで少し気が楽になった。
 しかし、それは束の間のことであり、ただでは治まらないのが、人の心の不思議なところである。
 今度は、あれだけ脳裡から離れなかった麻亜の面影が薄れていくことに我慢できなくなった。
 それは人の記憶として当然のことだった。なにせ一度きりしか逢っていないのである。
 晴信が面影を消すまいと必死になり、鮮明な姿を取り戻したいと足搔(あが)けば足搔くほど、麻亜の輪郭は時の経過とともにぼやけていく。
 それを解決する方法は、ひとつしかない。
 もう一度、逢うことである。
 しかし、それはどう考えても叶(かな)わない望みであり、再会を強行することを潔しとしない己がそこにいた。
 もどかしい煩悶の中で、晴信は己の記憶だけに頼ろうとした。
 そこから真の懸想というものが始まるのである。
 面影を取り戻そうとするならば、己の想像を極限まで膨らますしかない。
 ――あの冷たそうに透き通る頰は、……まことに冷たいのであろうか?……触れてみたい、本当に冷たいのかどうか……。
 やがて、その想いが妄想に変わっていく。
 ――あの口唇は? あの濡れたように光る黒髪は?……鬢(びん)のほつれ……細い首筋……華奢な肩……いかぬ。何を考えているのだ、晴信!
 触れたことのない肌の手触りが残っているような錯覚さえ起こり始める。
 それが「懸想立つ」ということだった。
 恋慕の情が強すぎて妄想が色めいてくることを「懸想立つ」という。古(いにしえ)より数多の和歌や「源氏物語」でも詠われている。
 そうなってしまうと、懸想が成就するか、完全に破れ果てるしか、決着がつかない。
 ――もう一度……もう一度だけでいいから……逢いたい。
 いつしか晴信はそのように思い始めていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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