第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
そんな晴信の様子を訝(いぶか)しく思う者が、もう一人いた。
三条(さんじょう)の方の侍女(まかたち)頭、常磐(ときわ)である。
――久方ぶりに新府へ戻られたというのに、上様のお渡りがまったくない。いったい、いかがなされたのか……。
女人(にょにん)独特の勘が働く。
――このところの上様は、あまりに新府を御留守になされることが多い。……まさか、諏訪に何か隠し事があるのではなかろうか。
そう思った常磐は、すぐに動いた。
「御方(おかた)様、明朝から数日、お暇をいただきとうござりまする」
「何かありましたか、常磐」
三条の方は微かに眉をひそめながら訊く。
「いいえ。たいしたことではありませぬ。これまで良き相談相手になってくれました板垣様が、諏訪の代官として赴任なされてしまいましたので、ご機嫌伺いを兼ねて諏訪へ行ってきとうござりまする。少し、ご相談などもありますゆえ」
「ああ、諏訪へ」
「我儘(わがまま)を申しまして済みませぬ」
「いいえ、ならば、板垣殿によろしくお伝えしてくりゃれ」
「承知いたしました」
常磐は笑顔で頭を下げた。
三条の方に許しをもらい、翌日の払暁とともに、二人の侍女を伴った常磐が新府を出立する。若神子(わかみこ)城で一泊した後、諏訪の上原城へ到着した。
突然の来訪に驚きながら、信方が侍女頭を迎える。
「……いかがなされました、常磐殿。三条の御方様に、何かありましたか?」
「いいえ。板垣様が諏訪に赴任なされましたので、ご機嫌伺いをと思いまして」
「ああ、なるほど……。それはご足労をおかけし、申し訳ない」
「これは御方様からのお遣い物にござりまする」
常磐は笑顔で宮笥(みやげ)を差し出す。
「かたじけなし」
それから、二人は互いの近況を含めた話をする。
「……太郎様の御修学も順調に進んでおりまして、岐秀(ぎしゅう)禅師様からもお褒めの言葉をいただいておりまする」
晴信の長男、太郎は三年前から父と同じ師である岐秀元伯(げんぱく)の指導を受けていた。
「おお、それは何より」
「されど、ひとつだけ気にかかることが……」
常磐が顔を曇らせる。
「気にかかること?」
「はい。先日、上様が新府へお戻りになられましたが、御方様や太郎様と御団欒(ごだんらん)をすることもなく、ずっと書院に閉じ籠もっておられまする。何か、あったのでありましょうか?」
常磐の問いに、信方が小首を傾(かし)げる。
「……新府へ戻ったならば、決裁せねばならぬ案件が山積みになっているはずなので、若は書類やら何やらと格闘なされておるのではないかな」
「諏訪との行き来も頻繁で、新府よりもこちらにおられることの方が多いくらい。このところ、ずっと御方様の処へのお渡りもありませぬし……」
そう言いながら、侍女頭はまっすぐに信方を見つめる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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