第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
その頃、晴信は煩悶(はんもん)が極点に達しようとしていた。
胸の裡(うち)に渦巻く感情が溢れそうになっているのに、誰にも話すことができない。
いっそ叫びだしてしまえれば楽になれそうだったが、常々、感情を抑えることで己を律してきたため、激情を解き放つ術(すべ)も知らなかった。
――だめだ……。我慢できぬ。
意味もなく書院の中を歩き廻った後、襖(ふすま)の前に立つ。
「信房、いるか?」
晴信は宿直(とのい)番の近習頭に声をかけた。
「おりまする」
教来石信房が襖の向こうで答える。
「ちょっと遠駆けをしたい。供をせよ」
「遠駆け……に、ござりまするか?」
戸惑うような声が聞こえた。
「さようだ」
晴信は襖戸を開けながら言う。
「では、護衛の者たちを集めてまいりまする」
正座していた信房が立ち上がろうとする。
「いや、供はそなただけでよい」
「されど、護衛をつけぬのは……」
「気分を変える夜の散策のようなものだ。案ずるな」
「はあ……。どちらへまいられまするか?」
「諏訪まで、ひと駆けだ」
「えっ!?」
たじろぎながら、信房が立ち上がる。
「ついてまいれ」
晴信は近習頭の当惑をよそに、大股で歩き始めた。
教来石信房は慌てて主君の後を追う。
館の番兵たちに口外を禁じてから、晴信は馬場で愛駒に跨(また)がる。速歩(はやあし)で走りはじめ、教来石信房の馬がそれに従い、併走し始めた。
明るい宵闇の中に、夏の匂いが広がっていた。
晴信はひたすら手綱を煽り、逸見路(へみじ)を疾走する。そうすることで、少しだけ心を落ち着かせることができた。
一気駆けで三刻(六時間)を走りきり、夜更け過ぎには上原城へ到着した。
晴信を見て驚く城門の兵を制し、水を所望する。
二人は竹筒に入った水を浴びるように吞んだ。
「……あのぅ、駿河守(するがのかみ)様は、すでにお休みになられておりまするが」
門番の兵が上目遣いで言う。
「起こさぬでもよい。散策のついでに寄っただけだ。われらに構わなくてよいぞ」
そう言い残し、晴信は教来石信房を伴って殿守閣(てんしゅかく)へ上がる。
蔀(しとみ)を開け、しばらく黙って諏訪湖の方角を眺めた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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