第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「まあ、諏訪の仕置の件で、若も相当にお忙しいからな」
「まことに、それだけにござりまするか?」
「ん?……と、申されると?」
「あまり、かようなことはお訊ねしとうござりませぬが、まさか、諏訪に側女(そばめ)でも置かれたとか……」
「いやいや、それがしが知る限り、さようなことはまったくありませぬ。だいたい、若は奥手なことに加え、女人よりも諏訪の仕置や政(まつりごと)などに夢中になっておられる」
「ならば、いいのですが。……懼れながら、ついでにお訊ねいたしますが、側室を娶(めと)るというようなお話もありませぬか?」
常磐は鋭い視線を向ける。
「ないが……」
信方は微かに眼を細め、侍女頭を見つめ返す。
「されど、常磐殿。若は武田家の惣領(そうりょう)にござる。お世継ぎの件は一門の大事ゆえ、男子は多いに越したことはない。もちろん、太郎様が後継となることは当然だが、かような乱世では何が起こるかわからぬ。信濃(しなの)での戦(いくさ)は当分続き、太郎様が元服なされた後は初陣に出ねばならぬゆえ、もしものことを考えて、次の男子がいた方がよい。そうしたことも含め、側室を迎えるということも必要になってくるであろう。もちろん、三条の御方様にもご了解いただき、皆で御台所(みだいどころ)を守(も)り立ててもらわねば困る」
「それは承知しておりまする。されど、次の男子と申されるならば、太郎様のためにも御方様との間に弟君をもうけられるというのが筋ではありませぬか?」
「まあ……そう言われれば、そうなのだが……」
「もしも、上様が御側室を迎えられるというのならば、まずは御方様にお話があって然(しか)るべきではありませぬか?」
「まあ、そうであろうな」
「間違っても、内緒で側女を置かれるなどということは許されぬのではありませぬか?」
常磐の口調が鋭くなっていく。
「まあまあ、落ち着かれよ、常磐殿。今のところ、さような話はまことにないのだ。御側室を迎えられるという話が出た時は、必ず三条の御方様とそなたに相談するゆえ、冷静に話を聞いてくれぬか」
「……わかりました」
「ところで、若の御様子なのだが、そなたから見ても、少しおかしいか?」
信方は己の感じた違和を確かめようとする。
「これまでになかった御様子のように感じられました。……それに加え、御方様は気丈に振る舞っておられますが、内心は寂しく思われていると存じまする。もちろん、太郎様も」
常磐は俯き加減で答えた。
「わかった。若が諏訪へ参られたならば、それとなく御方様と太郎様のことを話しておく。それでよろしいか、常磐殿」
「……はい、お願いいたしまする。……出過ぎた口をききまして、申し訳ござりませぬ」
「いや、そなたの立場ならば、当然のことであろう。ただし、このことだけは理解してほしい。諏訪の仕置はいま佳境に入っている。武田家の存亡もかかっておる。若も真剣なのだ。三条の御方様にも、そなたからお伝えくだされ」
「承知いたしました」
「常磐殿、せっかく諏訪まで参られたのだ。明日、上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)や諏訪湖を見学なさるといい。それがしがご案内するゆえ」
「まことにござりまするか。板垣様は、お忙しいのでは?」
「いや、構わぬよ」
信方は三条の方を安心させるためにも常磐を接待することにした。
諏訪の名所を案内しながら、その由緒や武田家との関わりなどを、それとなく常磐に話して聞かせる。聡明(そうめい)な侍女頭は、すぐに諏訪の重要さを理解したようだ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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