よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)15

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「承知いたしました」
 源四郎にとって飯富虎昌は叔父だった。
「では、それがしも蒼久保へ戻りまする」
 香坂昌信も頭を下げる。
「それがしは小幡とともに先陣へ向かいまする」
 初鹿野昌次は一礼してから踵(きびす)を返す。
 使番たちは一斉に動き始めた。
 晴信は小県(ちいさがた)全域の大地図を眺めてから、手元の地図を再び確認する。
 ――使番たちの予想以上の働きにより、ここにいても各所で動く隊の様子が手に取るようにわかる。まるで、空の上から戦況をながめるが如(ごと)くだ。これならば、戦局が細かく動いても、何とか対処できるであろう。
 その手応えが、晴信の微(かす)かな不安を胸の外へ追いやる。
「信繁、本陣の兵にも臨戦の態勢を取れと信邦(のぶくに)に伝えよ。もしも、付近で敵の動きがあったならば、われらもすぐに出陣する」
「わかりました。加藤(かとう)殿にその件を伝え、それがしは各所の検分に廻(まわ)りまする」
「頼んだ」
「では、失礼いたしまする」
 信繁は加藤信邦のところへ向かった。
 晴信は床几(しょうぎ)に腰掛け、再び大地図を睨(ね)め付ける。
 ――まずは散らばった敵の各個撃破。そして、砥石(といし)城攻めだ。
 その頃、信方(のぶかた)は戦支度を整え終わり、尼ヶ淵(あまがふち)砦から出撃しようとしていた。
「この砦は、もう用済みだ。再び敵に使われぬよう、建屋をすべて焼き払ってから出撃いたす。火を放て!」
 勢揃いした将兵たちに命じる。
 あらかじめ油をかけておいた建屋に次々と松明(たいまつ)の火が投げ込まれた。
 焔(ほのお)と煙に包まれた尼ヶ淵砦を後にし、信方の一隊は千曲川(ちくまがわ)の浅瀬を渡り、上田原(うえだはら)へ向かった。
 尼ヶ淵砦から立ち上る幾筋もの煙が合図となり、それを見た甘利虎泰(とらやす)の一隊も動き始める。科野総社から出立し、小牧山(こまきやま)の様子を窺(うかが)いながら千曲川を渡ろうとしていた。
 これが天文(てんぶん)十七年(一五四八)二月十四日のことだった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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