よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)15

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「今でこそ駿河殿は分別をわきまえた宿老(おとな)のお手本のように振る舞っておられるが、昔はそれがしもかなわぬほど気性が荒く、せっかちな御方であったのだ。まさに本能と直感で猛獣の如き戦いをなさっていた。眠らせていた本性が目覚めたようであるな」
「……あの駿河守殿が」
「おおかた敵陣の匂いを嗅ぎ取り、戦勘(いくさかん)が騒ぎ始めたのではないか。戦局を変える一手を決断なされたということだ。ともあれ、これでやっと戦が大きく動くであろう。われらにとっても好都合よ。源左衛門、これから後詰の陣へ行くのか?」
「はい。さようにござりまする」
「ならば、真田(さなだ)幸隆(ゆきたか)にそれがしが神川の北へ砦を探しに向かったと伝えよ。後で、その時に何と答えたか報告せい」
「承知いたしました。では、これにて失礼いたしまする」
 工藤祐長が足早に去った後、飯富虎昌が鬼美濃に言う。
「御屋形様には、それがしから報告の者を遣わしておきまする」
「いや、兵部。とりあえず、今は内緒にしておこう。報告すれば、必ず理由を問われる。理で説明せず、戦勘が騒ぎ始めたとでも答えれば、大目玉を喰らいかねぬ。まだ様子見ゆえ、大事なかろう」
「されど……」
「各所の采配は、それぞれの将に任された。違うか?」
「……いいえ、その通りにござりまする」
「ならば、このまま二人で策を進めるぞ」
「わかりました」
「逐次、伝令をよこすゆえ、心配いたすな」
 原虎胤は怖ろしげな笑顔で飯富虎昌の背中を叩いた。
 一方、本陣の晴信は次々と届けられる使番たちの報告を聞きながら、大地図の上で各所の動きを思い描き、戦場の全体を捉えようとしていた。
 さながら碁盤の隅々までを眺め渡すような仕草だった。
 ――大丈夫だ。ここにいても戦場の全体、すなわち大局は見えるはずだ。
 そう己に言い聞かせても、地図上に置かれた駒を見つめながら、気がつくと奥歯を嚙みしめている。見えない縄が首に巻かれたような息苦しさもあった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number