第四章 万死一生(ばんしいっしょう)15
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
――戦いの局面が慌ただしく動き始め、いま将兵たちがむかっている各所がすべて急場となるやもしれぬ。
急場とは、囲碁において死活に関わる局所の戦いを意味している。つまり、一手の間違いだけで、あっという間に自陣の石が全滅させられてしまう。囲碁ならば打った石が取られるだけで済むが、合戦では将兵たちの生死がかかっていた。
その重圧が己の肺腑(はいふ)を圧迫する。
それでも、晴信は息を詰め、この戦における急場の数々と大局を同時に摑(つか)もうと必死だった。
――まだ相手の応手(おうしゅ)が見えないゆえ、不安にかられるだけだ。それぞれの急場にいるのは、いくつもの死地を越えてきた百戦錬磨の猛将たちなのだ。余が考える凡庸な一手よりも、遥かに優れた判断で采配を振り、兵の命を無駄にしないように戦ってくれるはずだ。
息を止めたかのような晴信を見て、信繁が思わず声をかける。
「兄上……」
「ん……。何だ、信繁」
「まるで潜りの水練でもなさっているように見えました」
「潜りの水練?……ああ、知らず知らずのうちに、息を止めていたということか」
「呼吸を忘れるほどの集中は凄(すご)いと思いますが、長く止めすぎにござりまする」
「そうかもしれぬな……」
晴信は眼を閉じ、顔を上げる。それから、ゆっくりと深呼吸を始めた。
その様を確かめてから、信繁は火鉢にかけてあった土瓶から茶碗に白湯(さゆ)を注ぐ。
「兄上、これを」
それを受け取り、晴信が訊く。
「信繁、そなたは、この全体をどう見る?」
「うぅむ……」
顎をまさぐりながら、信繁が思案する。
「……囲碁に喩(たと)えるのは不謹慎かもしれませぬが、難解な局面に入っているかと。どこが急場で、どこが大場なのか、それがしにはまだ見えておりませぬ。されど……」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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