第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
武田勢の足軽隊が一斉に怒声を発し、篝籠(かがりかご)を蹴り倒しながら敵陣へ攻め入る。走り出した横田高松は迷わず幔幕(まんまく)を探していた。
一方、奇襲を受けた小笠原勢は何が起きたのかもわからないまま、大混乱をきたしていた。
物音に飛び起きた赤澤(あかざわ)経智(つねとも)は軍装を整えることもできず、主君の寝所となっている幔幕裡(ない)へ駆け込む。
「御屋形様、ご無事にござりまするか!?」
「……おお、経智。ずいぶんと騒がしいが、いったい、どうしたというのだ」
小笠原長時が寝ぼけ眼(まなこ)を擦(こす)りながら苛立(いらだ)った声を発する。
「おそらく、敵の奇襲にござりまする!」
「……敵の奇襲、だと?……あり得ぬであろう」
まだ信じ難いという面持ちで、長時が立ち上がる。
「とにかく、ここから逃げねば危のうござりまする」
次第に大きくなる怒号の中で、赤澤経智が叫ぶ。
「兵をまとめての応戦は?」
小笠原長時が訊く。
「間に合いませぬ。これだけ混乱の坩堝(るつぼ)に叩き込まれましたならば、応戦はかえって相手方の思う壺! 一刻も早くここを脱し、安全な場所まで退きましょう」
「麓にいる三村と山家(やまべ)は、何をしておった! 敵の奇襲に気づかなかったのか?」
「敵はわれらの背後、陣の西側に潜み、攻め寄せたようにござりまする」
「何だと!?」
小笠原長時は思わず立ち竦む。
「……余の鎧兜と馬を」
「御屋形様、お着替えの暇はありませぬ。このまま厩(うまや)へ行き、塩尻峠を目指しましょう。退路は旗本衆に切り開かせまする」
「わ、わかった」
小笠原長時は小具足姿のまま、赤澤経智と十数名の旗本衆に守られながら厩へ走る。
その直後に、横田高松の率いる足軽隊が幔幕裡へ斬り込む。次々と幕を蹴倒しながら、敵の総大将を探す。
「おのれ、ひと足、遅かったか! まだ遠くへは行っておらぬはずだ! 小笠原長時を追え! 逃がすでないぞ!」
横田高松の雄叫びに、足軽たちは気勢を上げて応える。
混乱の坩堝に叩き込まれた小笠原勢は、ただ先を争って逃げ始めていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。