よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「他には?」
「ござりませぬ」
「さようか。そなたが小県に足場を築いたならば、余はすぐに佐久へ打って出る。村上に通じる者を追い出し、甲斐、諏訪、佐久、小県を盤石のものとしたい。頼むぞ、真田」
「御意!」
 真田幸綱は険しい面持ちで頭を下げた。
 晴信から横田高松の同心を含む二千の兵を与えられ、幸綱は府中から諏訪の上原城へ向かう。そこで新たな諏訪郡代に任命された長坂虎房(釣閑斎光堅)に申し送りを行った。
 六月二十四日には兵を率いて上諏訪を出立し、二日後の夕刻に大屋の対岸へ到着すると、幸綱は兵たちと急襲の手筈(てはず)を確認した。その傍らには甲冑(かっちゅう)姿も初々しい真田源太郎の姿があった。
 子の刻(午前零時)を過ぎた頃、幸綱の率いる一隊は神川(かんがわ)を渡り、砥石城に向かって登り始める。麓にある陽泰寺で決行の時を待った。
「源太、これから起こることを一部始終、その眼に焼き付けておくがよい。これが真田家復興の始まりになる」
 幸綱は緊張で強ばっている息子に言った。
「はい、父上」
 真田源太郎はそう答えてから空を見上げる。
 絹曇りの夜空だった。
 しかし、上空を渡る疾(はや)い気流に雲が流され、裂目からわずかに欠けた半月が顔を覗(のぞ)かせる。
 幸綱も腕組みをし、刻々と変化してゆく空模様を見つめる。それで時刻を確かめていた。
 そこへ腹心の河原綱家が駆け寄ってくる。
「御大将、間もなく約定の丑の刻(午前二時)にござりまする」
「さようか」
 幸綱は静まり返った砥石城の追手道へと視線を向ける。
「して、城からの合図は?」
「まだにござりまする。されど、追手門の上で合図の灯りが廻されましたならば、すぐに物見の者が知らせに来る手筈になっておりまする」
「手下の者が灯りで合図を出した後、頼綱が自らの手で門の扉を開けるはずだ」
「承知いたしました」
 河原綱家はすぐに確認へと走った。
 その直後だった。
 追手道へ出ていた物見が戻ってくる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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