よみもの・連載

雌鶏

第一章3

楡周平Shuhei Nire

「闇市時代に馴染(なじ)みだった客の彫り師が、泉岳寺(せんがくじ)の近くに住んでいまして、墨入れをお願いに伺ったのです。もちろん清彦は返り血を浴びておりましたので、店で血を洗い、着替えを済ませて……」
「着替え?」
「雑炊が売り切れるか、客が途絶えるまでは開けておく店でしたので、遅くなった時には、帰る途中で銭湯に寄っていたのです。正月も三日目ですからまだ客は来ませんし、人通りもほとんどありません。明かりを消してしまえば、死体を放置しておいても、気づかれることはないと思いまして……」
 ますます興味をそそられた、いや感心したかのような眼差しで貴美子を見詰め、
「それで、墨を入れ終わったところで、自首したのだな」
 先を促すように問うて来た。
「はい……最寄りの警察署に……」
 貴美子は淡々と答えた。「それからは蜂の巣を突ついたような大騒ぎになりました。警察が現場検証を始める頃にはMPはもちろん、GHQの関係者までがやって来ましてね。取り調べも警察、GHQ、米軍がやって来ての大騒動……。無理もありませんよね。強姦(ごうかん)しようとした日本人女性、しかも未成年に兵士が二人も返り討ちにされたなんて、米軍にしたら前代未聞の不祥事にして恥辱以外の何物でもありませんもの」
 そこで鬼頭は小首を傾(かし)げ、暫(しば)し黙考すると、やがて口を開いた。
「確かに前代未聞の不祥事、恥以外の何物でもないが、それほどの大事件なら、新聞が派手に報じたはずだ。しかし、そんな記事を読んだ記憶はないが?」
「報道規制が敷かれたのではないでしょうか」
 貴美子は言った。「米兵の強姦事件は日常茶飯事。大半は日本人女性の泣き寝入りで終わったとはいえ、警察に捕まった兵士もいました。実際、闇市で店をやっていた頃は、何度かそうした現場を目撃しましたしね。でもMPに引き渡されて、それでお終(しま)い。軍法会議でどんな沙汰が下されたのか、一切外に漏れてきませんし、新聞でその手の記事を読んだことは一度たりともありません」
「なるほど。事件が起きたのは、GHQが報道機関の記事の事前検閲、情報統制を行なっていた時期か……」
「それに終戦から四年も経(た)つと、米兵の傍若無人な行動に怒りを唱える人たちも大勢出てきていましたのでね。こんな事件が報じられれば、どんなことが起こるか、分かったものではありませんもの。GHQだって、報道を規制するに決まってますわ」
「まさか、それも織り込み済みで、罪を被(かぶ)ったのではあるまいな」
「いや、さすがに、そこまでは……」
 貴美子は軽く目を閉じ、頭を左右に振った。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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