よみもの・連載

雌鶏

第三章

楡周平Shuhei Nire

   1

 淀興業(よどこうぎょう)は兵庫県の尼崎(あまがさき)に事務所を置く。
 従業員は十五名と小さな世帯だが、敗戦の影響で銀行の資金力も十分ではなかった時代、銀行の貸し渋りにあった中小企業を対象に、金貸しを始めた森沢義夫(もりさわよしお)が経営する街金である。
 早朝、午前九時。
 朝鮮戦争の特需という神風のおかげで、奇跡的な復興を遂げた日本経済は、昭和三十年を迎えた今になっても絶好調。中小企業の資金需要も増すばかりとあって、早朝から電話が鳴り止まない。
「吉村(よしむら)! 三十万持って、保坂土建(ほさかどけん)に行ってんか。条件はいつも通りや。期日までに全額払わんでもええが、利子はきっちり用意しとけと念押ししてや」
 受話器を置いた森沢の胴間声が、事務所に轟(とどろ)いた。
 黒のダボシャツに白のズボン、雪駄(せった)を履いた吉村が、バネ仕かけの人形のような勢いで立ち上がると、
「分かりました!」
 大声で叫ぶ。
 まるで軍隊、それもかつての陸軍を彷彿(ほうふつ)とさせるような光景だが、淀興業の序列と規律は軍隊同様に厳格だ。いや、同様というのは間違いかもしれない。なぜなら、淀興業において、森沢は唯一無二の絶対的存在で、彼の命に意を唱えるどころか、疑問を呈することすら許されないからだ。
 吉村は、立ち上がった勢いのまま部屋の奥、森沢の隣の席に座る清彦の前に進み出ると、直立不動の姿勢を取り、
「副社長、お願いします!」
 軍隊そのものの礼をする。
「三十万ね……」
 現金の取り扱いは、清彦の役目だ。
 机の上に置いていた手提げ金庫を開け、中から十万円ずつ束にした札を取り出すと、
「よろしく……」
 吉村に手渡した。
「では、社長。行って参ります!」
 今度は森沢に向かって、頭を下げた吉村が、事務所を出て行ったところで、
「婿はん、話がある言うっとったな。あっちの部屋行こか」
 椅子から立ち上がった森沢が、傍らの応接室を目で差した。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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