よみもの・連載

雌鶏

第三章

楡周平Shuhei Nire

 頼ったのは、海軍時代に知り合った北原孝明(きたはらたかあき)だった。
 大阪出身の北原は、十七歳で海軍の新兵を養成する海兵団に入り、終戦まで軍に籍を置いた生粋の軍人だった男である。南洋諸島での戦闘で、左手の薬指と小指を失う重傷を負って後方勤務となり、清彦とは、彼がお台場の海軍経理学校の宿舎で雑用係をしていた際に知り合った。
 言葉の節々に現れる関西訛(なま)りは新鮮だったし、どうやら経理に興味があるらしく、親しく言葉を交わすようになると、時折教本を見せてくれないかとねだるようになったのだ。
 旧制中学どころか、高等小学校しか出ていないにもかかわらず、北原は聡明な頭脳の持ち主で、教本を一読しただけで、勘所を押さえては質問を繰り返す。その理解力の速さに、清彦も教え甲斐(がい)を感ずるようになったのだ。
 もっとも、北原は当時二十五歳。最終学歴が高等小学校では、経理学校に入学するのは不可能だ。
 そこである日、「どうして、そんなに経理に興味を覚えるのだ?」と訊ねたところ、
「金持ちになりたいからであります。金が好きなのであります」
 臆面もなく言い放つのだから驚いた。
 主計官は戦闘要員ではないが、戦闘艦、非戦闘艦のいかんを問わず、艦隊勤務になれば死を覚悟しなければならない。だから金は家族に仕送りするか、命あるうちに使い切ってしまうものでしかないのだが、二度と戦場に立つことはない北原は別だ。早くも大戦が終わった後の生き方に目を向けていたのだ。
 経理学校を終え、任官する際に実家の住所を交換していたので、連絡はすぐについた。
 六年ぶりで会う北原の様相は一変していた。
 胸元を大きく開けた白い開襟シャツに、麻の生成りの背広、そして白い革靴。一眼でその筋の人間と分かる出立(いでた)ちで、清彦の前に現れた。
「少尉殿、お久しぶりでございます」
 軍隊時代の習慣は、六年経っても抜けきらないらしい。さすがに敬礼こそしなかったものの、背筋をピンと伸ばして頭を下げる。
「少尉殿はやめて下さい。第一、北原さんは歳上なんですからね。普通に話しましょうよ」
「そない言われましてもねえ……。一度身についた習慣言うもんは、改めるのが難しいもんですわ。こっちのほうが楽なんですもん、ええやないですか」
 そう言って笑う北原と、そこからお互いの近況報告となったのだったが、意外にも彼はヤクザにあらず。街金の幹部社員として回収役を任されていると言う。
「こないな格好してますと、誰でもヤクザや思いますわな。そやし、取り立てには抜群の効果があるんです。それに、自分、指も欠けてますし」

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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