よみもの・連載

雌鶏

第三章

楡周平Shuhei Nire

 井出(いで)から森沢に姓が変わった清彦は、黙って頷くと森沢の後に続いて応接室に入った。
 そこは四畳半ほどの広さで、四つの革張りのソファーが置かれており、森沢はその一つにどっかと腰を下ろすと、
「そこ座り……」
 正面の席を目で指し、次いで煙草に火を点ける。
 命じられるまま清彦は腰を下ろすと、早々に要件を切り出した。
「新手の商売を始めたいと思いまして……」
 森沢は、ふうっと煙を吐き出すと、清彦の視線を捉えたまま問うてきた。
「今度は、何すんねん」
「勤め人相手に、金融をやったらどうかと考えまして……」
「勤め人って、月給取りのことか?」
 森沢はピンとこない様子で、怪訝な表情を浮かべる。
「月給取りには違いありませんが大会社の社員の主婦を相手に金を貸そうかと……」
「主婦う?」
 煙草を口に運びかけた手を止め、森沢は声を吊り上げると、「そら、財布の紐(ひも)を握っとるのは主婦やけど、その分家庭の懐具合はよお知っとんのやで。まして、大会社勤めの亭主がいてる主婦が、街金から金を借りるかいな。他人に知れたら、亭主の出世に関わることにもなりかねへんのやで」
 話にならないとばかりに苦笑する。
「そうでしょうか」
 予想していた通りの反応だけに、清彦はすかさず反論に出た。「今の世の中は、戦中を生き抜いた人間にしてみたら、夢の世界にいるようなものです。いつ死ぬかも知れない恐怖から解放されましたし、飢える心配もありません。給料だって右肩上がりなら、生活を快適にする新製品が、次から次へと出てくる。実際、洗濯機やテレビのような高額製品が飛ぶように売れていますからね」
「売れてる言うたかて、即金で買うてるわけやないやん。月賦やないか」
「月賦だって借金じゃないですか」
「そら、そうやが……」
「月賦で高額商品を買えるのも、世の中、会社、ひいては自分の将来に明るい見通しが立てばこそです。実際、給料は上がり続けていますからね。毎月の支払額が一定ならば家計への負担はどんどん軽くなっていくんですから、高額商品でも月賦なら買えることになるでしょう?」

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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