1. ウルトラマンは沖縄からやってきた
澤宮 優Yu Sawamiya
あるジャーナリストの回想
円谷プロ時代は沖縄のことをほとんど語らなかったという金城だが、それ以前の彼は沖縄に対してどのようなスタンスをとっていたのか。戦後、米国の統治下にあった沖縄の姿は、多感な少年だった金城にはどう映っていたのだろうか。
少年時代の金城は物語を創作する能力が卓越していた。彼の家の周囲には沖縄芝居の一座がよく巡業して、テント小屋で上演していたので、金城はしばしばテントに潜り込んで芝居に夢中になっていた。それにより身に付いた話術が、彼の特技となった。
夏休みになると金城は、ガジュマルの木の下に友人たちを集めて、自分の創作話を聞かせるようになる。そんな個性豊かな彼のために母親が進学先に選んだのが、東京にある玉川学園高等部であった。母は玉川学園の創立者、小原國芳が沖縄で講演した際に彼から本を贈られ、そこに書かれた教育方針に感銘したのである。玉川学園は自由主義教育を行うことで伸び伸びと生徒を育て、演劇活動にも力を入れていた。
昭和30年、金城は玉川学園高等部に入学する。沖縄から本土に行くのには、当時まだパスポートを申請しなければならなかった。金城の弟・和夫は語る。
「兄にとって玉川学園がウルトラマンの生まれる原点になっていると思います。玉川には専任講師として脚本を教える上原輝男先生がおられ、兄は先生にシナリオを教わり、好きこそものの上手なれで、次々と作品を書くようになりました。上原先生は円谷プロともコンタクトがあったので、先生は兄の就職先として円谷プロを勧めてくれたんです」
今も沖縄にある亡き金城の仕事部屋には、玉川学園の同窓会名簿が残されている。名簿には、〈自分の人生を決定づけた第一人者は小原國芳です〉と金城の自筆の文字がある。
玉川学園に在学中の金城と親しかったジャーナリストの森口豁(かつ)は、当時の彼をよく憶(おぼ)えている。なにせ彼は金城の影響で沖縄に関心を持ち始め、琉球新報の記者を経て日本テレビのディレクターとなり、沖縄について数々の番組を制作するに至ったくらい、彼とは関係が深かった。
昭和30年の秋、森口が高校2年生のときである。それまでは金城のほうが一学年下だったこともあり顔見知り程度の仲だったが、金城から「僕と一緒に沖縄に行きませんか」と声をかけられたのだ。金城は学友たちに、沖縄へ一緒に行ってぜひ沖縄の姿を見て欲しいと呼びかけを始めていたのである。
旅行は物見遊山ではなく、現地の高校生と交流し、彼らの考えを知り、意見交換をすることが目的である。ちょうど戦後10年の節目で、森口を含め17人ほどが集まったという。旅行は翌年の春休みに「玉川学園沖縄親善訪問団」として実施されることに決まり、年長の森口が団長を務めることになった。
当時の沖縄には琉球政府が作られ、司法(裁判)、立法(議会)、行政(内閣)と形だけは整っていたが、議会で可決しても米国の意に添わなければ、琉球政府の上部機関の琉球列島米国民政府で否決されるという仕組みであった。形ばかりの政府で、事実上沖縄は米国の支配下にあった。森口は言う。
「幹線道路でさえ歩道がないため、米軍の乱暴な運転による人身事故がとても多く、沖縄の人はよく轢(ひ)き殺されました。さらに米兵は殺人や強姦なども繰り返しましたが、沖縄の司法では裁けない。しかも米軍の軍法会議では無罪。仮に有罪の判決が出ても、本国に帰してしまえば、本当に服役するのかどうかもわかりません」
米軍を批判すれば、本土への渡航を申請しても却下され、就職にも響く時代であった。沖縄の人は自由にものも言えない。森口たちは、そのような状況を知り、自分たちと同世代の沖縄の高校生たちがその現実をどう捉えているのか、現地に行って確かめようという気になった。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。