よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

1. ウルトラマンは沖縄からやってきた

澤宮 優Yu Sawamiya

沖縄も日本に復帰したい!
 昭和31年の3月、玉川学園高等部の生徒たちは鹿児島から船で那覇(なは)港まで行き、二週間の旅を始めた。彼らは那覇、コザ、前原(まえはら)、石川(いしかわ)、糸満(いとまん)、知念(ちねん)、読谷(よみたん)、名護(なご)の高校を回り、交流を深めた。沖縄の生徒は琉球舞踊や琉球空手の演武を披露してくれた。
 その旅の最中の出来事だった。ある高校での意見交換会で、ひとりの男子生徒が立ち上がって語ったのだ。
「この教室にはスパイがいるかもしれない。だから僕が話すことは米軍に筒抜けになり、米軍や政府に捕らえられ、予期せぬ仕打ちを受けるかもしれない。だけど僕はあえて言う。沖縄も日本に復帰したいのです。僕が勇気をもって言わないと、あなたたちは沖縄の現実を何もわからないで日本に帰ってしまうからです」
 まさにこのときしかない、と考えたその生徒にとって、血を吐くような思いの叫びであった。公然とアメリカ政府を批判する主張に教室内は凍りつき、金城の表情にも張り詰めた緊張が走った。森口にとっても大きな衝撃だった。自分たちはこの言葉を聞いた責任、沖縄の現実を知った責任があると考えた。
「僕がそれから沖縄の仕事を始める原動力になりました。現実を知った以上、逃げ場がないと思いました。自分たちが見た沖縄を全国に知らせなければいけないと思ったのです」
 森口の問題意識は深まり、この年の夏休みも帰省する金城に同行し、二人で沖縄を回った。二人は訪問団の参加者たちと「沖縄研究会」を作る。沖縄の現状を本土の同じ世代に知ってもらうと同時に、沖縄の若者が今、何を考えているのか伝えることも大事だと考えたのだ。「見てきた沖縄」というガリ版刷りの小冊子を作り、それを全国の高校の生徒会に配布した。そこには自分たちが見た沖縄を紹介する記事のほか、沖縄の生徒から送られた文章や詩も掲載した。
「沖縄研究会」の活動中のある日の夕方、皆でパンフレットを謄写版で刷っていたときのことである。金城が突然聞きなれない歌を歌い出す。その曲調は、地を這(は)うような哀しみを帯びていた。
〈なちかしや沖縄(うちなー) 戦場(いくさば)になやい 世間御万人(しきんうまんちゅ)ぬ袖(すで)ゆ濡らち……あわり屋嘉村(やかむら)の闇の夜の鴉(がらし) 親(うや)うらん我身(わみ)ぬ 泣かんうちゅみ〉
 皆が聞き入っていると、金城は「これは屋嘉節だ」と言い、曲の由来を説明してくれた。
 昭和20年の沖縄戦のさなか、投降した住民や兵士は金武(きん)村の屋嘉収容所に入れられた。屋嘉節は、そこに収容された住民が創作した歌だと言われている。捕虜たちは空き缶や木材、そしてパラシュートの紐(ひも)で“カンカラ三線(さんしん)”を作って、即興で歌った。戦争のむなしさ、平和を願う歌詞なので、すぐに沖縄中に広まったという。森口は言う。
「どんなに悲惨で苦しい生活でも、沖縄の人たちは歌や踊りを欲したんだね。哲夫がどうやって戦場で生き延びたのか、長い付き合いの中で聞いたことはありません。言葉で語る代わりに、歌に託して彼が唯一僕に戦争のことを伝えたのが屋嘉節です」
 金城は森口の家に来て食事を共にすることがよくあった。
「哲夫は家族の一員でした。彼が家に入ってくると、家の雰囲気ががらりと変わるんです。とにかく彼は明るいので、そこにいる皆が朗らかになります。彼を囲んで話を聞いているのは、寒い中でストーブに当たっているような感覚でした」
 天真爛漫(てんしんらんまん)な金城の人柄を感じさせるエピソードである。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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