よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

1. ウルトラマンは沖縄からやってきた

澤宮 優Yu Sawamiya

ウルトラマンの苦悩
 沖縄に戻った金城を、周囲は放っておかなかった。テレビの司会、ラジオのキャスターへの抜擢など次々に声が掛かる。金城も三十代の前半だから、多くの仕事をそつなくこなし、島中の人気者になった。腰をすえて小説などの執筆に取り組みたくても、多忙でなかなか思うようにはいかなかった。
 そして沖縄は激動の瞬間を迎える。昭和44年、日米共同声明で両3年内の沖縄の日本復帰が発表されたのだ。そのとき「沖縄は核抜き、本土並み」という方針も確認されたが、四十七年五月十五日、正式に日本に返還されてみると、約束は裏切られた。依然として米軍基地は存在し、核の持ち込み疑惑も残ったままだった。変わったのは、沖縄の支配者が米軍から日本政府になっただけである。
 この頃、金城は琉球放送のラジオ番組「モーニング・パトロール」のキャスターを務めていたが、沖縄の時事問題を論じることには苦労もあったようだ。沖縄にいたのは中学までで、以後は東京で暮らしたから、復帰前の沖縄で起こった数々の問題、事件をこの目で見ていない。そのため頼りにしたのが、友人の森口だった。彼は金城が沖縄に戻ったとき、日本テレビの沖縄特派員として沖縄に住み沖縄報道に専心していたからである。森口は語る。
「哲夫は一番多感な時期にヤマトンチュ(内地の人)の中にいた。年に一回、二回里帰りしても、沖縄の実情はなかなかわかりません。激動期の沖縄を見ていないために、沖縄への認識に地元の人々とギャップができてしまったんです」
 金城は書斎の机の上に新聞を一杯に広げ、自衛隊問題、沖縄海洋博の賛否などの記事を読むが、これらの問題をどうリスナーに伝えるべきか、迷うことが多かった。森口は自分の見解を金城に話し、そこから金城は自分の考えを作ってゆく。ラジオの収録前はそんなことを続けていた。しかし昭和49年に森口は東京に転勤になり、頼りにすべき友人は沖縄からいなくなってしまった。
 一方、金城はこの頃、沖縄芝居を次々と創作している。映画やテレビに押されて人気が無くなっていた沖縄芝居だが、その分野で彼は本領を発揮する。劇団の座付きとして「佐敷のあばれん坊」「一人豊見城(とみぐすく)」「風雲!琉球処分前夜」などの演題を書き、六本の芝居が上演された。だがこれは沖縄芝居ではないと批判する評論家もいた。テンポを速くし、場面の切り替えも多用するのが金城の流儀だったが、これが“ヤマト芝居”的で、沖縄芝居ではない、というのだ。上原は言う。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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