よみもの・連載

雌鶏

第二章2

楡周平Shuhei Nire

 貴美子は柔らかな口調で、しかし断固とした口調で遮った。「つまり、人の目に触れない、あるいは評価を得られない存在になってしまう。政治家として、十分な実績をお持ちで、かつ新党の党首にならんとしているお方が、そうなってしまうとしたら、病以外にどのような理由が考えられるでしょうか?」
 羽村の表情が再び変化する。
 伏せた目の中で、瞳が左右に動くのが見てとれた。
「先生ほどのご重鎮が、新党の党首選を前にして、埋もれた存在になってしまう。つまり、党首候補とはみなされなくなるとしたら、病以外にないと思うのですが?」
「病……ですか……」
 羽村は、呻(うめ)くように、貴美子の言葉を繰り返し考え込むと、やがて顔を上げ口を開いた。
「実は、ふた月前に胃潰瘍の手術を受けまして……」
 貴美子は表情を変えることなく頷いて、先を話すよう促した。
「政治家が一番恐れるのは病です。大将がいつ倒れるか分からないとあっては、付いてくる者はいやしませんのでね。ここ一年ばかり、胃が時々痛むことがありまして、地元に戻った際に大学病院で診断を受けたところ、軽度の胃潰瘍で手術するよう勧められたのです」
「地元とおっしゃいますと?」
「私の選挙区は岩手の県南部ですが、最先端の設備が整った大病院といえば近場では仙台です。術後の回復は個人差がありますし、手術どころか入院したことも絶対に知られてはなりません。それで、国会の会期が終了するのを待って、極秘で手術を受けることにしたのです。執刀医は消化器外科の権威で、予後の回復も殊の外よくて、術後十日で退院することができまして……」
「十日で退院とは、よほど腕の立つお医者様だったのですね」
「症状が軽かったこともありましたし、抜糸したその日に無理やり退院しましてね」
 羽村は薄く笑う。「実は、検査を終えた時点では、それほど深刻な状態ではなさそうなので、暫く様子を見ようかと思ったんです。でもねえ、医者も家族も、癌(がん)になったら大変だ。今のうちに切ったほうがいいと手術を勧めますし、政界再編の機運は日増しに高まるばかり。男子の本懐を遂げんとする戦いがいよいよ始まろうというのです。胃の調子が悪化することはあっても、良くなることは絶対にないと思いましてね。国会も会期が終わったことだし、地元に止むなき仕事ができたことにして、手術をしてもらうことにしたのです」
 鴨上によれば、羽村の本当の病名は胃の噴門部に生じた癌だと言う。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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