第二話『天命を待つ(萩城)』
矢野 隆Takashi Yano
「殿の命は殿だけの物。私の命もまた、私のみの物にござりまする」
「しかしそれでも……」
「殿は御自分の命を履き違えておられる」
「無礼であろうっ」
先刻言いくるめられた左衛門尉が怒りに堪え切れずに叫んだ。周南は一向に動じず、目すらむけようとしない。激昂した家臣たちが、立ち上がらんとしている。
「良い」
腰を浮かしている左衛門尉を手で制してから、吉元はふたたび周南を見る。
「どういう意味じゃ」
殺気立つ家臣たちに怯(ひる)みもせず、周南はただ吉元だけを見つめている。
「人に命があるように、天にも命がござりまする」
「天命……」
「人は死ぬが、天は生き続けまする。時が流れれば、おのずと天の命も変わる」
目の前の俊英は、一度深く息を吸った。
「学問は人を曲げるものであってはならぬのです」
答える言葉が見つからない。
「私怨を臣に託すことが、果たして君のすべきことにござりましょうや」
*
前を行く基直の持つ手提げ提灯に照らされる石段を、一歩一歩歩んで行く。つづら折りになった石段は、登るほどに厳しくなる。それでも黙々と吉元は歩を進めてゆく。
指月山の山頂付近にある詰丸をめざしていた。
訳があってのことではない。宵の口に自室から月を見た。綺麗な満月である。あまりにも見事であったから、山の上から見ればさぞ美しかろうと思い、部屋の外にいた基直だけを連れ、他には誰にも告げずに本丸裏手にある登り口へと足をむけた。
「本当に上まで行かれるのですか」
前を行く基直が恐る恐る問う。思い起こせば二年前、夜中に呼び出し罵倒した近習が、この基直だった。あの時感じた我が身に対する怒りと、家臣を罵倒した後悔の念が、周南との邂逅(かいこう)を得て、明倫館となって結実しようとしている。
周南とはじめて語らった時、身近にいたのもこの基直であった。
「行く」
簡潔に答えると、基直はふたたび前をむいて、登りだした。
詰丸には家臣たちが詰めているから、入れないという心配はない。ただいきなり何の報せもなく吉元が現れれば、みな驚くに違いなかった。
月が見たい。
それはきっかけに過ぎなかった。
躰を動かしたかった。
身中にある、もやもやとした物の所為で、この所、毎日落ち着かない。自身を律する心が無ければ、叫んでいるところだ。己は毛利家の当主である。防長二国三十六万石の主なのだ。そう己に言い聞かせているから、かろうじて自制する心を保っていた。
周南に会ってからだ。あの男が言ったことが、棘(とげ)となって心に残っている。だからどうにも落ち着かないのだ。
殿は御自分の命を履き違えておられる……。
突き刺さった、いくつもの棘のなかで、心の一番奥深くに食い込んでいるのは、この言葉だった。
毛利家の無念を晴らすために己は如何に生きるべきか。それが吉元の命であると思っていた。それが間違いだと言うのか。
明倫館創設も、命を全うするための手段のひとつなのだ。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。