連載
城物語
第二話『天命を待つ(萩城)』 矢野 隆 Takashi Yano

        *

「本当に呼ばずとも良いのですな」
 吉元に背を向けながら、明倫館学頭、小倉尚斎が、静々と廊下を歩む。開校したばかりの明倫館は、真新しい木材の香りに満ち、吉元を清々しい気持ちにさせる。晴れ渡った空の下、光に満ちた校内に、講師たちの声が響く。
「今日は忍んで来ておるのだ。顔を見せて講義を阻んではならん」
 答えた吉元に、尚斎がうなずく。
「ここが周南殿の」
 言って学頭は立ち止った。閉じられた襖の前に吉元も立ち、黙って室内の声に耳をかたむける。
「私が話している時であっても、気になることがあったら手を上げて発言してもらって構わない。唯々諾々と講師の言葉を受け入れるだけでは学びとは言わぬ。みずからで考え、気づき、疑問を投げかけ、語らい合う。その時、私と其方たちは講師と生徒ではない。ともに学ぶ者として対等に、語らい合おうではないか」
 壁のむこうから聞こえてくる周南の言葉を聞き、思わずといった様子で尚斎が笑った。そしてにやついた目のまま、吉元を見る。
「あの通りでございます」
 吉元も微笑みを返す。
「周南は変わらぬ」
「はい」
 尚斎がうなずく。すると、またも壁のむこうから周南の淀みない声が響いてきた。
「ここの学頭の小倉尚斎殿は朱子学の大家であられる。当然、この明倫館の教えの根本も朱子学である。が、私は荻生徂徠先生より、古文辞学を学んだ。私は自分を曲げるつもりはない。私は師の教えを元に、講義を行うつもりである。どういう道を辿ろうと、学びの末に辿り着く場所はひとつだ。古文辞学と朱子学。どちらも学んだ末に、選ぶのは其方たちだ。いや、いずれかを選ぶ必要もない。両道を行くのも良いだろう。何もかも、己で決めるのだ。学びのなかで己に与えられた命に気づき、それを全うする。其方たちはそのために、ここにいることを忘れるな」
 ともすれば朱子学との対立を宣言するような周南の言葉であるが、尚斎はそれを穏やかに聞いていた。そして静かにうなずくと、吉元に語りかけてくる。
「周南殿らしい、才気煥発なる御言葉ですな」
 そう言った尚斎の笑顔を見て、吉元はこの学頭の懐の深さを改めて知った。そして、学頭の人選が間違いでなかったことを、確信した。
 襖の前に立ったまま、尚斎は続ける。
「周南殿は、袴さえつければ、商人や職人の聴講を許すべきだと申しておりましてな」
 民は士とは違う命を持っている。本もなく、字も知らぬ。そういう命を持っているのだから、素直にそれを受け入れて、民としての命を全うする。それこそが民の成すべきことだと周南は言った。
「学ぶ場を与えることができれば、おのずと命も変わってくる。そう申されておりました」
 場を与えても、動くのは当人だ。あくまで場を用意し、あとは民に任せる。学びたき者は勝手に学べ。
 周南の言葉が聞こえてくるようだった。それは決して冷たい訳ではない。自覚こそが学びの本質であり、己で悟らなければ命ではないのだ。
「初代学頭として、この明倫館の礎となる。それが某の命にござる」
 襖の奥を見るように遠い目をして、尚斎が言った。その穏やかな声が、吉元の胸を打つ。
 尚斎と周南。
 この二人の男がいれば、明倫館は揺るがない。



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〈プロフィール〉
矢野 隆(やの・たかし)
1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。
Back number
第二話『天命を待つ(萩城)』
第一話『戦人の城(伊賀上野城)』