連載
城物語
第二話『天命を待つ(萩城)』 矢野 隆 Takashi Yano

「人事を尽くして天命を待つ」
 吉元がつぶやくと、襖から目を逸らした尚斎が視線をむける。
「読史管見(とくしかんけん)ですな」
「語義はいささか違いまするがな」
「天命……。おぉ、徂徠殿の申される命を、天にもなぞらえたのですな」
 本来の言葉が持つ天命の語彙は、天から人に与えられるべき使命のことだ。しかし吉元は、天命を、天自身が持つ命だと捉えた。周南の受け売りではあるが。
 尚斎は、そんな吉元の意図を、即座に悟ったのである。
 有能な学頭に、吉元はにこやかに語りかけた。
「時が移ろえば、自ずと天の命も変わってゆく」
「人はただ成すべき事をするのみにござりまするな」
「うむ」
 迷い続けた深い闇の果てが、見えたような気がした。
「周南先生っ」
 襖のむこうから、快活な声が聞こえてきた。聞き覚えのある声である。
「なんだ」
「古文辞学と朱子学を学んだ後、我等が周南先生を批判することになったとしても、先生はそれで構わぬと申されるのですか」
 基直の声だった。
「構わぬっ。その時は、大い語り合おうではないか。今申したように、道は違えど辿り着く場所はひとつだ。其方等と私が見つめる先は、なんら変わらん。学び、そして己が命を識れ。そのために其方等はここにいる」
「解り申したっ」
 周南に負けぬ覇気を漲らせた基直の声に、吉元の口許が自然と綻ぶ。
「行きますかな」
 襖から顔を逸らし、尚斎が廊下を歩きだし、吉元は追った。
 背後ではまだ、講義が続いている。

 尚斎の死後、二代学頭となった山県周南は、荻生徂徠以来の教えを明倫館に浸透させていった。生徒の自覚をうながす教えは、九代学頭山県太華(たいか)によって朱子学が重んじられるようになった以降も続く。尚斎と周南によって築かれた明倫館の精神は、幕末、わずか九歳で明倫館の師範になった吉田松陰にも受け継がれ、多くの志士たちの躰に刻み込まれてゆく。そして、松陰の教えを受けた者たちの手によって、徳川幕府は二百六十年の歴史に幕を閉じるのである。
 吉元が尽くした人事は、百五十年という歳月の流れの末に訪れた天命によって、ようやく実を結んだのだった。



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〈プロフィール〉
矢野 隆(やの・たかし)
1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。
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第二話『天命を待つ(萩城)』
第一話『戦人の城(伊賀上野城)』