『ナポレオン』全3巻完結記念 特別対談 佐藤賢一 × 矢野隆
―英雄を描くということ―
構成/宮田文久
撮影/織田桂子
- 矢野
- はい(笑)。それぐらい穏やかな方ですし、温かい言葉をかけてくださる先輩だというイメージがあるので、今回のナポレオンの書かれ方は非常に新鮮で、ぐいぐいと引き込まれながら読みました。すごく楽しかったです。
すこし具体的にお話しさせてください。僕の主戦場は日本史で、たとえば豊臣秀吉が好きなんですね。常軌を逸した上昇志向というか、上に行くぞという気性があって、そこにシンパシーを感じる。だからこそ佐藤さんの『ナポレオン』を拝読すると、恐ろしささえ感じました。秀吉をしのぐというか、日本史上では見当たらないのではと思うような、僕の想像の範疇(はんちゅう)をこえた覇業を行っているナポレオンという存在。もういいじゃないか、ここでやめれば平和じゃないかというところでも、いやダメだと突き進む――その存在としての絶対的な質量というか、多くの人間がその引力に吸い込まれていく様に圧倒されたんです。
- 佐藤
- 興味深いお話です。秀吉とナポレオンの比較ということでいうと僕はむしろ逆に、人生の前半としては秀吉のほうが大きかったと思うんです、やっていたことも、考えていたことも。というのもナポレオンの場合、最初はものすごく規模が小さい。生まれ育ったコルシカ島を、フランスから独立させたい、という一点のみですから。
いってみれば、近代のよくできた知識階級が持つような理想だったり、国家観だったりのもとで独立運動をやっていく。秀吉が天下をとってやると意気込む、その圧倒的に大きなスケールに比べて、ナポレオンのほうは小さくまとまっていて、いかにも小利口な近代人という感じです。ただ、ナポレオンはコルシカ独立に失敗して、挫折してしまう。そこで、彼を縛っていたもの、枠が外れちゃった、ということなんでしょうね。 - 矢野
- 挫折によって変わったと。
- 佐藤
- ナポレオンからコルシカというものがなくなったら、どこにも自分が帰属する場所がなくなってしまうんですよね。
- 矢野
- とても切ないシーンを書かれていますよね。「故郷を奪われたあと、自分に全体何が残っているだろうと自問すれば、まだしばらくは途方に暮れるしかなさそうだった」――。
- 佐藤
- そこからフランスで覇権を握ろうが、ドイツを手中に収めようが、最終的には失敗しますが仮にロシアまで取れたとしても、自分の居場所ではないわけです。だから、どこで止(や)めればいいのか、わからなかったのだろうなと思いますね。
- 矢野
- ナポレオンは、コルシカの英雄パオリに殺されかけ、島を逃れてフランスへ。やがて妻となるジョゼフィーヌと出会い、それまでのナポレオーネ・ブオナパルテから、ナポレオン・ボナパルトと、名前を変えていきます。ここにはやはり、ひとつの帰属意識の“喪失”がある、ということですよね。
- プロフィール
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佐藤賢一(さとう・けんいち) 1968年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。99年『王妃の離婚』で第121回直木賞、2014年『小説フランス革命』で第68回毎日出版文化賞特別賞、20年『ナポレオン』で第24回司馬遼太郎賞を受賞。
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矢野隆(やの・たかし) 1976年福岡県生まれ。2008年「蛇衆綺談」で第21回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。09年、同作を『蛇衆』と改題して刊行。21年『戦百景 長篠の戦い』で第4回細谷正充賞を受賞。時代・歴史小説を中心に執筆し、人気ゲームやマンガのノベライズも手がける。
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江口洋(えぐち・ひろし) 集英社文庫編集部・部次長