『ナポレオン』全3巻完結記念 特別対談 佐藤賢一 × 矢野隆
―英雄を描くということ―
構成/宮田文久
撮影/織田桂子
- 佐藤
- なるほど。ただ、そのパリに行ったとき、偶然にも逆の情景も目の当たりにしたんですよ。ナポレオンの棺(ひつぎ)が置かれているアンヴァリッド(パリ中心部の旧・軍病院)に足を運んだとき、とても天気がよかったからなのか、上部の吹き抜けからバーッと光が降ってきていたんですよね。パリでこんな明るいところがあるのか、というくらい。
- 江口
- それはもう、ナポレオンに呼ばれましたね(笑)。
- 矢野
- 啓示のような光景ですよね(笑)。
- 佐藤
- どうなんでしょう(笑)。でも、本当に印象的な光景でした。
- 矢野
- パリでのナポレオンということを考えていくと、物語が終盤までぐーっと進んだ頃の話になりますが、ナポレオンが失脚後に一度復位し、百日天下と呼ばれる時期を過ごします。そのナポレオンに最後、冷たく引導を渡すフーシェという人物がいますね。ワーテルローの戦いでイギリス、プロイセンら同盟軍に敗北したナポレオンに、エリゼ宮からの退去を命じます。結果としてナポレオンは、終(つい)の住み処(すみか)となるセント・ヘレナ島へ追放されていく。
- 江口
- フーシェ、いいキャラクターですよね。情報通の警察大臣として最初に登場するときから、不気味な雰囲気を漂わせている人物です。冴(さ)えない容貌の人間なんだけれど、話しているうちにナポレオンは、自分たちのクー・デタ計画のすべてをフーシェはつかんでいる、ということを察知する。「目の前にいて、なお影が薄いような男が浮かべる微笑に、ゾッと背筋が寒くなった」という一節があります。
- 矢野
- そんなフーシェが、栄華を極めた後に転落していくナポレオンの前に再び現れ、政治の舞台から叩(たた)きだす。「負けるのが、悪いのだ、ナポレオン。負けなければ、もう少しくらいは、な」と……あの瞬間に、フランス人たちの本音がナポレオンにドンと突き刺さる。戦争に勝っているあいだはいいが、負けるナポレオンなぞ、フランスには要らない。むしろずっと、フランス人がナポレオンに熱狂していている頃から、そうした思いは心のどこかにあったのだ、ということですよね。
- 佐藤
- その気持ちは、きっと実際にあったんだろうなと思います。特に権力の中枢の近くにいた人は、「なんでこいつのいうことを聞かなきゃいけないんだ」という思いを、長らく持っていたことでしょう。便利だからとりあえず利用しよう、ナポレオンが活躍しているうちは自分もうまい汁を吸えるというだけで、コルシカからやってきたナポレオンのことを心底認めていたわけではないようなところがありますね。 日本史でいうと、織田信長と明智光秀の関係性のことを思い出します。ナポレオンを利用するフーシェや、貴族出身の外務大臣であるタレイランのように、光秀もまた、信長を便利な人間とみなして、とりあえず仕えていたのではないか。むしろ使っていたという見方もできるんじゃないだろうか、と。
- 江口
- ロードバイクのドラフティング(風除け)のようなことですね。
- 矢野
- 面白いですね。光秀の経歴については諸説あるわけですが、どうやら細川家の家人(けにん)のまま足利義昭(よしあき)に仕え、どうもそのままなし崩し的に信長に仕えていった、という変な人のようなんですね。
- 佐藤
- きっと、そういう人ってけっこういるんでしょうね(笑)。今までは信長が光秀を手荒く使っていたというような視点ばっかりだったけれど、実は……。
- 江口
- 光秀のほうも、利用していた、と。逆にナポレオンの立場から見れば、「自分はここまで来たんだ、ああ、よかった」と落ち着くことができるポイントがないんですよね。いつでも、周囲の誰かが反抗してくる可能性がある。自分はこのポジションにいていいんだろうかと思いつづけるし、その不安をかき消すためには何かやらなきゃ――それが戦争に行かなきゃいけない、勝たなきゃいけないということになっていく。本当に、じっとしていられない人生なんですよね。
- プロフィール
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佐藤賢一(さとう・けんいち) 1968年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。99年『王妃の離婚』で第121回直木賞、2014年『小説フランス革命』で第68回毎日出版文化賞特別賞、20年『ナポレオン』で第24回司馬遼太郎賞を受賞。
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矢野隆(やの・たかし) 1976年福岡県生まれ。2008年「蛇衆綺談」で第21回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。09年、同作を『蛇衆』と改題して刊行。21年『戦百景 長篠の戦い』で第4回細谷正充賞を受賞。時代・歴史小説を中心に執筆し、人気ゲームやマンガのノベライズも手がける。
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江口洋(えぐち・ひろし) 集英社文庫編集部・部次長