よみもの・連載

『ナポレオン』全3巻完結記念 特別対談 佐藤賢一 × 矢野隆
―英雄を描くということ―

 
構成/宮田文久
撮影/織田桂子

佐藤
だと思いますね。あそこで、自分というものをどう規定していいのか、おそらくわからなくなってしまっている。
矢野
佐藤さんは、フランス皇帝としての戴冠式をプロローグにもってきていらっしゃいますね。ナポレオンが、自らの手で戴冠する、あのシーンは、とても象徴的ですよね。俺を規定しているのは、教皇でも国でもない、俺が俺を規定しているのだ、という意味合いの行いですから。
佐藤
本当にそうですね。自分を規定するものが、自分しかない。思い出すのは、この作品を書く前、コルシカ島に取材に行ったときのことです。ナポレオンの生家が博物館のようになっていて、当時の資料が展示してあるんですが、読んでみると、まったくフランス語じゃないんですよ。今のイタリア語とも違うのですが、当時の土壌としてはほとんどイタリアの感覚だったんだろうな、ということを痛感しました。この地に帰属意識のあった自分というものがなくなって、よくナポレオンはフランスを手に入れることができたな、と。
矢野
実はフランス社会のなかにおいても、ずっと“外”から来た人間なんですよね。もうすこしコルシカ島のお話をうかがってみたいのですが、実際に行ってみて、書こうと思っていたナポレオン像が多少変わったというようなことはあったのでしょうか。
佐藤
行く前は、リゾート地のようなイメージを持っていたんです。船だと時間がかかるから、たいていはパリやマルセイユから飛行機で行くんですが、実際に足を運ぶと、海岸がちょっとあって、あとはずーっと山、というような場所でした。あのときは担当編集さんと一緒だったんです。面白かったのはね、ふたりして空港からタクシーに乗ったら、「あなたたちは“すばる”か」と聞かれまして。「すごい、『小説すばる』ってコルシカでも名前が知られているんだ」と思いながら街に入っていったら、ラリーをやっていたという(笑)。
矢野
車の「スバル」だったんですね(笑)。すごい符合ですね。
佐藤
ねえ(笑)。ラリーコースになっているんですよ、島全体が。タクシーで街中にいて、後ろの車がやたらうるさいなと思ったら、ラリーカーが平気で信号待ちしているような、そんな週末に島を訪れていたんですね。山ばかりで砂利道がつづら折りになって続くような、そんな環境でした。
矢野
小説のなかでも、コルシカ島のパートを読んでいるときは、日差しがまぶしいような、晴れている情景の“色”が見えてくるんですけれど、パリが舞台になった途端に、僕のなかのイメージが、鈍色(にびいろ)の空になるんですよね。
江口
後で触れることになると思いますが、足の引っ張り合いの街ですからね(笑)。
矢野
そうなんです、佐藤さんが書かれているナポレオン自身の心理も、曇り空のような心持ちであることが多い気がするんですよね。
プロフィール

佐藤賢一(さとう・けんいち) 1968年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。99年『王妃の離婚』で第121回直木賞、2014年『小説フランス革命』で第68回毎日出版文化賞特別賞、20年『ナポレオン』で第24回司馬遼太郎賞を受賞。

矢野隆(やの・たかし) 1976年福岡県生まれ。2008年「蛇衆綺談」で第21回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。09年、同作を『蛇衆』と改題して刊行。21年『戦百景 長篠の戦い』で第4回細谷正充賞を受賞。時代・歴史小説を中心に執筆し、人気ゲームやマンガのノベライズも手がける。

江口洋(えぐち・ひろし) 集英社文庫編集部・部次長