よみもの・連載

『ナポレオン』全3巻完結記念 特別対談 佐藤賢一 × 矢野隆
―英雄を描くということ―

 
構成/宮田文久
撮影/織田桂子

江口
改めて、こうしたナポレオンの長い人生を小説のかたちに築いていくうえで、佐藤さんがどのように執筆を進められたのかも気になります。佐藤さんの歴史小説は、軽やかな会話が魅力のひとつでもありますが、どう書き進めておられるのでしょうか。
佐藤
実は僕は、最初にずーっと会話だけ書いていくんですよ。で、会話を書き終わってから、歴史的な背景や風景、説明などを書き入れていくんです。
江口
えっ!? そうなんですか。
佐藤
歴史上の人物が小説のなかでうまく動かない、ということがもしあるとすれば、それは地の文から書くからなのかな、という気もします。結局、人はどの時代でも喋(しゃべ)っているはず。しかし、歴史から書こうとすると、“人”がいなくなってしまう。だから会話を最初に書いて、とにかく人を動かして、そこから歴史的な説明をはめていくんです。
矢野
佐藤さんの小説では、鍵カッコだけでなく、地の文のなかにも会話が入り込んでいますよね。
佐藤
そうなんです。要は、先に会話を書いているうちに人物が喋りすぎてしまうので(笑)、鍵カッコだけでなく、地の文にも会話を入れちゃっているんですね。
江口
三人称多視点の描写で、ある鍵カッコのフレーズをきっかけに視点人物が変わるというパターンも使っていらっしゃいますが、あれも真ん中の会話文が最初に書かれている、ということなんですね。
佐藤
はい、そうなんです。
江口
なるほど、佐藤さんの特徴的な文章の成り立ちがよくわかって、勉強になりました。他にも、おふたりは歴史小説を書くにあたって、意識していらっしゃることはありますか。たとえば、定番とされる名言や場面をどう描くのか。佐藤さんの『ナポレオン』のなかでは、辞書に不可能の文字はないという有名なフレーズが、まったく自信満々ではないというか、落ち着いて口にするのではない場面で登場しますよね。
佐藤
ナポレオンにしても他の歴史上の人物にしても、多くの名言がありますけれど、あれは書斎のなかにその人物がこもって延々と考えた末の名言ではないんですよね。戦場だったり、政治の場であったり、そうしたひとつひとつの現場や動きのなかで出てくるのが、歴史的な名言だと思います。だからこそ重みがある。ナポレオンはそうした現場主義の最たるものなので、今回の小説はそういったところも楽しんでもらえればなと思います。
矢野
僕は先だって『戦百景 桶狭間の戦い』(講談社文庫)という作品を書いたのですが、織田信長が「敦盛(あつもり)」を舞って湯漬けを食うという有名なシーンを、どう描こうか考えたんです。もちろん、よくあるように「鼓を持てい!」と、ドドンと叫ばせて場面を盛り上げていくやり方もあります。ただ僕の場合は、布団の上に座ったまま「人間五十年……」「下天のうちを比ぶれば……」と、自分にいい聞かせるように謳(うた)う、というふうに描いたんです。
この小説は戦(いくさ)をテーマにしたシリーズの一作なんですが、どちらが勝ってどちらが負けた、ということを考えないように、そこから逆算して書かないようにしているんです。信長も、今川義元も、どちらも勝つつもりでいたわけですよね。そこをちゃんと歴史的なシーンにするのであれば、アスリートが自分の好きな歌を聞いてモチベーションを高めるように、信長が自分にいい聞かせているようにしよう、と。
プロフィール

佐藤賢一(さとう・けんいち) 1968年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。99年『王妃の離婚』で第121回直木賞、2014年『小説フランス革命』で第68回毎日出版文化賞特別賞、20年『ナポレオン』で第24回司馬遼太郎賞を受賞。

矢野隆(やの・たかし) 1976年福岡県生まれ。2008年「蛇衆綺談」で第21回「小説すばる」新人賞を受賞し、デビュー。09年、同作を『蛇衆』と改題して刊行。21年『戦百景 長篠の戦い』で第4回細谷正充賞を受賞。時代・歴史小説を中心に執筆し、人気ゲームやマンガのノベライズも手がける。

江口洋(えぐち・ひろし) 集英社文庫編集部・部次長